2017

朝食を作るミケの背中を眺める。大きくて広い背中。ざっくりと編んだモスグリーンのセーターは一昨年の誕生日に私が贈ったものだった。ミケにはくすんだ色が似合う。秋から冬に変わってゆく深い森のような色。
ベーコンの焼けるにおい。午前7時40分のキッチンの片隅。椅子の上で毛布を頭からかぶって膝を抱える私にトーストを焼き、分厚いベーコンをスライスし、目玉焼きを作りそして熱くて苦いコーヒーまで淹れてくれるミケ。
この家でキッチンの主導権を握るのはミケなのだ。壁にかかっている鉄製の重たいフライパンや赤くひなびた唐辛子の束。挙句名前もわからないようなハーブすらぶらさがっている。そんなもの、私は使いもしない。オリーブオイルと塩さえあればなんとかなる、と言う私に「nameの料理も美味いぞ」とあからさまなフォローを入れてくれるあたり、ミケは私なんかにはもったいないぐらいよくできた男だった。
包丁を握るミケの手をぼんやりと眺める。無骨な指なのに、彼の手先は驚くほど器用だ。皮をなめし、寸分の狂いなく裁ち、ちくちくと等間隔で縫い合わせる。素朴でしかし丁寧な仕事をするミケの作品を気に入る人は少なくない。度々量産の話を持ち掛けられるけれど、それを必ず断る職人気質なところもまた彼が愛される所以なのかもしれない。「ミケは不器用だからな」友人であり仕事仲間のエルヴィンは酒の席でいつもミケをそう言ってからかう。まぁ、確かにそうなのかもしれないけれど。

「できたぞ」

「待ってました」

「なんだ、靴下、はいてないのか」

頭から毛布をかぶっているくせに裸足のままだった私を見てミケが肩を竦める。特別部屋が寒いわけではない。うっすら冷えた私の足先を、ミケは温めるのが上手なのだ。
朝食は申し分なく美味しかった。デザートにオレンジまでついていて、私は朝から幸福な気持ちになる。分厚い皮をむくとテーブル一面が鮮やかに香った。瑞々しい果汁を啜るように食べる。パーフェクト。息をついて満足げに笑った私の前に、ミケの指がさしだされた。今にもオレンジの雫がたれそうな人差し指の指先を上目遣いで見る。口に含めば仄かな酸っぱさが舌の上で淡く消えていった。
洗い物を流しに下げもせず、私たちはベッドへ行く。白いレースのカーテンからは休日の眩しい朝の光が惜しみなく降り注いでいる。店の入り口には「close」の札がかかっている。心配することなど何一つない。

「休みの日って、最高」

「朝からこんなことをしても赦されるから、か?」

「赦されるって。休みの日じゃなくても私は赦してるはずだけど」

「だったら罪悪感の差か」

罪悪感なんてないくせに。ふふ、と笑って私はミケの首筋に顔を埋める。ほのかな石鹸の香りと動物の香り。「あるさ」と言ったミケの声は笑いを含んでいた。鼻先が触れるか触れないかの距離でキスをする。思い出したように目を開けてミケの瞳の奥を覗く。鹿の毛皮の濃い部分によく似た色。あるいは鷹の羽根のような。おおよそミケには森のイメージが付きまとう。霧のかかった人気のない静かな森。私は唯一その場所に踏み入り留まることを許されたひとりだった。きっと、ミケには私が傷ついた動物に見えたのだろう。初めて私とミケが出会った時、私はそんな状態だったから。だから彼の存在自体が私の癒しであり、居場所だった。拒まれず、拒みもせず。
キスはさっき食べたオレンジの味だった。セックスは不足なく、むしろ十二分だった。さっきまで冷えていた足先は火照ったように熱く、そして少し怠い。外からは往来を行く子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

結局昼前まで怠惰にベッドで過ごした私たちは、シャワーを浴びてスーパーへ行く。卵がもうないと言っていただけだったのに、カートには山盛り品物が放り込まれていた。ワインの壜とお菓子の袋、色とりどりの野菜たち、肉や魚。夕方の混み合った店内とは違い、昼食時のスーパーは閑散としていた。ミケは私の腰に時々手を回しながら、「nameはどっちがいい?」と訊ねてくれる。どっちでもいいものもあれば、そうでないものまで。最終的にトイレットペーパーまで買い込んだ私たちはやっとの思いで車に荷物を運びこむ。昼食用に買ったサンドイッチを行儀悪くも既に頬張る私の横で、ミケはハンドルを握っている。カーステレオから流れる昔の曲に合わせて時々口笛を吹きながら。
少し眠たそうな瞼。ウインカーの音がカチカチと車内に響く。
ミケの店は日曜が定休日だ。ひっそりと静まり返った工房は、全てが正しい場所に収まり、静かに呼吸をしていた。ミケの手によって、誰にも乱すことのできない完璧な秩序が作り出された世界。
それぞれが荷物を抱え二階に上がる。手分けして荷物をしまい、一息ついた。私が部屋着に着替えている間に、キッチンの方からコーヒーの香りが漂ってくる。

「ミケも着替えてきなよ」

「ああ」

「後は私がやっとくから」

「頼んだ」

今朝着ていたのとは違う、カーキのコットンシャツのボタンを留めながらキッチンに戻ってきたミケは「ちゃんと手は洗ったか?」と私を後ろから抱きしめる。「洗いました」子供扱いはやめて。顔を顰め、ミケの身体にもたれ掛かりながら真上を見上げると、ミケは目を細めて私を見下ろしていた。
ミケ曰く、「nameなんて子供みたいなもんだ」らしい。「すぐ感情が顔に出る」とも言っていた。あながち間違いではないけれど、事実、年齢が離れているだけあってそう言われると余計に拗ねたような態度をとってしまう。すると決まって「ほら、そういうところだ」とミケは笑う。
とはいっても、ミケの大人の余裕や包容力(これに関しては彼の性格が占める割合が多いのだけれど)に私が心惹かれているのは間違いない。静かで、穏やかで、力強い。ずっと変わらない日々を過ごせるのだという、不思議な確信を私に与えてくれる。それは何よりも大切なことだった。

「苦くなりすぎちゃった」

「目が覚めるな、ありがたい」

「もうお昼なのに?」

「次は上手にいれてくれ」

はい。素直に頷けば、そんなに落ち込むなとミケは私の頭を優しく撫でた。
キッチンカウンターの前に立ちながらコーヒーを啜る。置いてあるポトスの葉が一枚枯れていたのを摘んで捨てた。この冬は乾燥がひどい。重ねあわせたミケの手の甲も、心なしかいつもよりカサついている気がした。
泥よりも苦いコーヒーにミルクと砂糖を山盛り入れて、ようやく全て飲み終える頃にはすっかり冷たくなっていた。

「午後はどうする?」

ミケはサンドウィッチを、私はデザートのプディングを食べていた。甘さに頬を緩ませていると、ミケが口を開く。特に行きたい場所もなかったし、なにより休日の午後はどこも人でいっぱいだからうんざりなのだ。

「特に、なにも」

「わかった」

そう言って最後のひとくちを食べ終えると、立ち上がって流しへ向かう。ざあざあと水の流れる音。ミケは洗い物を後回しにするのがあまり好きではない。私とは違って。

「これも」

「ああ」

プディングを食べたスプーンと器を流しに置いてミケの隣りに立つ。離れて椅子に座り、洗い物をするミケの後ろ姿を眺めるのも好きだけれど、こうして隣りに立つのも好き。手伝うでもない私を邪険にすることなくミケは粛々と皿を洗ってゆく。
ふと、甘えてみたくなって私は彼の腰に腕をまわす。「こら、まだ途中だぞ」と言いながらも抵抗しないのをいいことに、両腕で思い切り抱きしめた。
どうしてだろう、時々例えようのない寂しさが心をよぎるのは。今みたいな幸福の真っ只中にいるというのに、胸の奥が締めあげられたように苦しくなってしまうのだ。ぎゅっと目を瞑り、冷たい嵐のようなその感情がすぎるの待っていると、洗い物をしていた手を止めミケが優しく抱きしめ返してくれた。

「どうした?」

「なんにも」

「お前は顔にすぐ出ると、いつも言ってるだろう」

頬に当てられた手のひらは湿っていた。
きっと、幸せすぎるんだ。ミケの瞳に映った自分を見ながら思い、近づいてくる唇を受け止める。そっと押し当てるだけのキスだった。もっと欲しくて私はねだる。どこかでクラクションの音が鳴っていた。
きっとこれからまたベッドの中に沈むのだろう。予感ではなく、確信。
そうやってお互いを確かめ合う。愛しあうのとはまた別の意義が私達のセックスにはある。時にはそれが慰めだったり遣る瀬無さの捌け口だったりもするけれど。
いいじゃないか、今日は休日なんだから。そしてミケは言うのだろう。優しく私の脚に口付けながら。あの穏やかな眼差しで。

【ここで生きていて】
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