ひとのこの、よろこびとは。
手遊びに半紙に書きつけた。人の子のよろこびとは。三日月宗近が私の背後でそれを読み上げる。声を発するたびに背中から振動が伝わってくる。同じような体温、同じような呼吸。それでも私達は似て非なるもの。
「幸せってなに?」
「うまい茶と菓子ではないか?」
「なるほど」
彼がそう言うのであればそうなのだろう。なにせ亀の甲より年の劫なのだから。
その先を考えない場合、愛していると言うのはいとも容易い。口にしてしまった私は神に喰われてしまったのだ。彼と交わって、私は人でありながら人ではなくなってしまった心地がした。美しい瞳はまるで社の奥にある鏡の如く私を映し出し、その奥に広がる宙では幾億もの星たちが降り注いでいた。
薄い唇は私に生涯消えない痕を残し、それは私の咎の証となったのだった。神と交わった罪。
その時三日月宗近はからからと笑っていた。「良い、良い」吸い込まれるような目を細めて繰り返す。なにが良いのかはわからなかったが、良いと言うならそれでいい。
「それは私にとっても幸せなの」
「さあなぁ」
「無責任」
「少なくとも不幸ではないだろう」
「まぁ」
おいしいお茶とお菓子。確かに幸福ではある。
伸びてきた三日月の指が唇に触れる。そっと食めば彼が背後でふっと笑う気配がした。真昼の部屋は明るく、かわいた太陽のにおいが充満している。
「今が私にとっての幸せ」
「たった今か?」
「そう」
首筋に熱が灯る。「だったらもっと良いものをやろう」唇を押し当てたまま三日月が言う。「いらない」くすくすと私は笑って彼の指を噛んだ。手にしていた筆を硯に置いて振り返れば視界が藍色に染まる。
はだけた襟から覗く私の身体。斑についた朱い痕は一度ついたが最後決して消えることはなかった。増えてゆく一方の痕を三日月の指先が慈しむような仕草で撫でる。色を濃くした桜の花弁のような形をしたそれ。はらはらと舞い落ちる薄紅に埋もれて私達は呼吸を忘れてしまう。
吐く息は仄かに甘く、まるで。
「うつつ世に人の子の幸せなど、」
あるのだろうかなぁ。口の中で融けてゆく言葉は呪いのように私の身体に染みこんでいった。指先が与える甘美な誘惑に抗うことなくのみ込まれ、真昼の部屋で私は星降る夜へと誘われる。
【さくらを食べた口許】
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