「ねー!あの人超カッコいいー!」「あの制服青城じゃない?」「なんでここにいるんだろ」「彼女待ちとか?」「やーだー!」
正門をくぐろうとしたら女子の黄色い声が耳に入った。その中に青城という言葉を見つけた私は嫌な予感がして踵を返す。少し遠回りにはなるけれど、今日は通用門から帰ることにしよう。そう思って騒がしい正門に背中を向けたけれど、時すでに遅しだった。
「nameちゃーん!」
わざとらしく呼ばれた名前に人違いですと振り返りもせず言い放ったけれど、そんなことで私の手首を掴む力は弱まらない。
「なんで逃げるのさ」
「及川がいたから」
「ひどっ!」
傷ついた顔をする及川の後ろから女子たちの恨めしそうな視線が送られてくる。
「一緒に来て欲しいところあるんだけど」
「はじめと行けばいいでしょ」
「岩ちゃんと行ってもしょうがないんだって」
「知らないよ。丁重にお断りします」
「いや丁重にしないでいいしお断りもしないでいいから!」
お願い!と両手を顔の前で合わせた及川の姿に、軽く人だかりと化したギャラリーからは私に対するよからぬ言葉が漏れている。
思い出したくもないことが脳裏に蘇り、私は及川の手を振り払って校内に走って戻った。ここまでくれば流石の及川もなす術なしだ。中庭のベンチで膝を抱えながらぼんやりと空を眺める。あぁ、今日は月曜日か。そこまで考えて気が付いた。もう月曜日だから、だなんて関係なかったんだった。冬の冷たい空は晴れ渡っている。
鞄の中から携帯を取り出してはじめにメールを送る。及川と遊んであげて。送信すれば間も無く返信があった。「お前が行けよ、か」ため息をついて私はリダイヤルから及川に電話をかける。結局いつだって履歴の一番上は及川なのだ。
「もー、来てくれるならあの場で言ってくれたらいいじゃないのさ」
「ココア、ホットね」
「nameチャン?人の話聞いてる?!」
ぶつぶつ言いながらも及川は自販機に小銭を入れる。出てきたココアの缶を手渡しではなく私のコートのポケットに入れた。「熱いから」と紳士ぶった態度をするけれど、それは彼の素の優しさだ。
小さい時からよく来ている遊園地は勝手知ったるものだった。息巻く及川に連れられるがまま大人用から子供用までアトラクションを乗りに乗っている内に段々と日は暮れはじめ、いつしか閉園時間三十分前を告げるメロディが物悲しげなノイズ交じりに流れ出す。
「及川」
「最後はあれだから」
「……うん」
最後は観覧車。私と及川とはじめの、三人での決まりごと。初めて乗った時、小さかった私は高いよ怖いよと二人の間に挟まって縮こまっていた。今でもそれは、及川とはじめが私をからかう際の格好のネタだった。
絶対に手はなさないでね。絶対だよ。もう十年以上前のことなのに、風景も会話も不思議とはっきり覚えている。他の記憶は驚くべき速さで色褪せていくというのに。
ギィギィと鳴る不穏な音とともにゆっくりと上昇してゆく景色。西に沈む夕陽を受けて薄紫に染まった薄い雲が、薄暮の空にたなびいている。ぽつぽつと灯り出した灯りがやけに物悲しかった。滑らかに移動する電車、光の河みたいな車の列。夕暮れはどうしてこんなに物悲しい気持ちになるのだろう。ばいばい、またね。小さな手を振り合ったあの頃。
「観覧車、嫌だって言われるかと思った」
ぽつりと呟いた及川の声で現実に引き戻される。
「彼女に振られて傷心の及川クンをこれ以上いじめたら可哀想だっただけ」
「あ、ばれてた?」
さっすがname。隣に座る及川がからりと笑った。
「ばればれだよ。及川がここに来たいって自分から言う時は絶対それだから」
「俺も馬鹿だよねー、ほんと」
「……だね」
観覧車のベンチに置いた手に及川の手が重なる。いつからだっただろう、私たちが観覧車に乗るとき手を繋がなくなったのは。
「傷心の俺は毎回期待しちゃうわけ。あーここでnameが俺にチューでもして慰めてくれないかなって」
「して欲しいの?」
「欲しい、って言ったら」
してくれるの?
低く甘えるように私の耳元で囁くと、及川はこちらに身を乗り出した。うっすらとにじむ体温と彼の春みたいなにおい。
しないよ。私は素っ気なく答えた。
「もう、あんな思いしたくないから」
及川が悪いわけでは無い。けれどそれは私が表向きに彼を避けるには十分すぎる出来事だった。
「昔のことじゃん」
「及川にとってはでしょ」
ただの幼馴染に収まっていた時には感じることのなかった、周囲の女子たちからの明確な悪意。四年前に同じ場所でしたキスは思いがけず私たちの運命を狂わせた。
同級生ならいざ知らず、名前も顔すらも知らない上級生からも心ない言葉をすれ違いざまに浴びせかけられた。個々の不満は集約され、単調な学校生活におけるちょっとした鬱憤のはけ口として私が選ばれた。校内でも一二を争う人気男子の彼女であるというそれだけの理由で。幸か不幸か彼女たちは周到であった。それ故事態に及川が気が付くまである程度の時間がかかったのだった。そして彼が私をかばうほど(あの及川のへらりとした甘いマスクと女子ウケをもってしても)、私への風あたりは強くなるだけだった。
上級生が卒業し、各々スケープゴートに興じるよりも受験勉強に力を入れるようになってきた頃の進路相談でのことだった。
及川とはじめが青城に進学することはかねがね聞いていたし、おそらく二人も私が同じ青城を受験すると思っていたに違いない。けれど私は二人とは全く別の、それも少し離れた場所にある高校に進学することを決めていた。なんでだよ、と詰め寄ったはじめと冷静だった及川に、私は「ごめん」とだけ告げた。そして卒業式の当日、私は及川にさよならをした。桜の蕾が薄いピンクに色付いていた、まだ寒い日のことだった。
もう面倒なことには巻き込まれたくなかったのだ。知っている人もほぼいない高校に無事合格した私は、平穏でそれなりの高校生活を送っていた。
勿論高校に進学してからも及川やはじめと三人で出かけることはあったけれど、私は及川の気持ちに関して徹底的に無視を決め込んだ。
だからといって昔の記憶がなくなったわけではない。癒えたように見える傷は未だ取れないかさぶたの下でじくじくと痛み、私はその度に目を閉じて膝を抱えなければならなかった。
そして及川は高校で何人もの女子と付き合ったけれど、結局誰とも長続きはしなかった。「あいつも馬鹿だよな」はじめは何度となく私にぼやいたものだった。
「name、あと少しでてっぺんだよ」
「……」
誰も座っていない向かいの席。一面に張られたガラスは茜色に染まっていた。隙間から透明な夜の風が忍び込むようにして入ってくる。
音もなく、私たちはゆっくりと一番高い場所まで上昇する。眼下に広がる町並みが夕焼けに揺れていた。そのあまりの美しさに息をのむ。もう何度となく見てきたはずなのに、どうしてこんな。
「泣かないでよ」
「泣いてない」
「あの時だって、こうやって泣いてくれればよかったのに」
「私は、」
「知ってる。nameは強いよ。でも本当はそうじゃないことも知ってる」
「私のなにを知ってるって?」
「俺はnameが思ってるよりも結構、nameのこと知ってるつもりなんだけど」
「自惚れないで」
睨みつければ「その目岩ちゃんにそっくりなんだけど?!」とふざけられた。観覧車のゴンドラは北風に揺られなら下降してゆく。無理を言ってでも、はじめにも来てもらえばよかったと私は後悔した。やっぱり及川と二人きりはだめだ。時間が巻き戻されたような錯覚に陥ってしまうから。
「もうすぐ終わりだ」及川が呟いた。本人にそんなつもりはなかっただろうけれど、終わりという言葉が彼の高校での部活生活とかぶって聞こえ、ひどく寂しげに私の耳に響いた。
咄嗟に重なった手を握りしめた。あの時よりずっと大きな手になっていた。
本当はずっとこの手を握っていたかった。本当はずっと、この手に守られていたかった。差し伸べられていた手を振り払ったのは私だ。及川の気持ちを無下にしていたのも。けれどそうするしかなかった。それ以外、私に選択肢はなかったから。
「なに?気が変わったの?」
期待しちゃうからダメだって。困ったように及川が笑って言った。
「変わった」
「……へ?」
「だから、気が変わった」
「え?え、ちょ、ま、name待って!」
地上に着いたゴンドラからひと足先に降りた私を、及川が焦りながら追いかけるようにして降りてくる。さっきと変わらず、閉園合図の蛍の光が流れていた。
「徹、」
私は夕日を背負って振り返る。久しぶりに呼んだ下の名前。「及川」なんて呼ぶよりずっとしっくりくる。きっと私がどんな顔をしているか彼には見えていないはずだ。だから言える。
「ごめん、やっぱ好き」
そうだ。どれだけ徹と距離を置いても、どれだけ過去を遠ざけても、頑なに下の名前で呼ぶことをしなくても、私はずっと徹のことが好きだった。そしてそれと同じぐらい、自分が傷つくのも嫌だった。だから何にも気が付かないふりをした。そうすれば、もう心が悲鳴を上げることは無いから。
だというのにどうだろう。「及川」と呼ぶたびに喉の奥が苦しくなった。隣り合う距離の遠さに悲しくなった。こんなことならいっそ会わないほうがマシだと何度も思ったのに、彼に会えなくなる寂しさには耐えられそうもなかった。
ーーでもそうじゃないことも知ってる。さっき言った徹の言葉が胸の中でこだましている。私の弱さを、彼から逃げた狡さを、徹は許してくれていた。観覧車の中では我慢できた涙が、ぼろぼろと溢れ出す。三年ぶりの涙だった。私は両手で顔を覆う。この場から走り去りたいのにそうできないのは、もうこれ以上は徹から逃げられないとわかっているから。そして、徹に力の限り抱き締められているからだった。
「ごめんなんて言わないでよ」
その声は震えていて。ああ、徹でもこんな風になるんだなと不思議に思う一方で、そういえば昔はよく泣いていたなぁなんて、遠い記憶がよみがえる。何の疑いもなく三人で過ごしていた日々。ずっとずっと、真夏の昼下がりみたいに眩しい日々が続くと信じていたあの頃。
私は徹の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。真面目なのは苦手だ。これでもいっぱいいっぱいで、茶化すしか仕方がない。
「徹が泣くのはキモい」
「ひっど!」
ず、と鼻を啜ると徹は私の首元に顔を埋める。「ずっとこうしたかったんだよね」しみじみと言う彼の背中にそっと腕を回した。私もだよ、とは言えなかった。言わなくてもきっと徹にはわかっているはずだから。
「何人も彼女作っといてよく言うよね」「それ今言う?」「言う」長い影がひとつになって、茜色に染まったアスファルトに伸びている。失ってしまった三年間を取り戻すことはできないけれど、たった三年間、と言えるほど長い時間をこれから過ごせばいい。身体を離して徹を見上げる。「え?なになに?キスしていいの?」と近づいてきた顔をひとまず避けて、私は彼の手を取った。
「帰ろ」
「……うん」
無言のまま私たちは正門へと続く道を行く。平日、とりわけ寒い日だったこともあってか他には誰の姿もなかった。
「俺さ、嬉しかった」
「何が?」
「nameが好きって言ってくれて」
「言ってない」
「ちょっと!」
「……」
「でも俺の方が好きだから」
「そういうの、私には通用しないよ」
これぐらい好き、と大きく両手を広げていかにもな台詞を口にした徹に私は言った。
「でもname、顔赤い」
「夕焼けのせいだから」
俯いた私の手を自分のコートのポケットにつっこんで徹は笑った。
「そういうのも俺には通用しないの」
「ばーか」
しみじみと、今この瞬間の幸せをかみしめるのに精いっぱいで、それ以上言葉は出てこなかった。ノイズ交じりの蛍の光が流れ続ける遊園地。夕焼けの空も今日は悲しくなかった。握りしめた手の温もりと右斜め上から降ってくる優しい気配。ばいばい、またね。振り合う手はもう小さくはない。「今度は絶対離さないから」私の目をまっすぐに見て言う徹の、首元でゆるく結ばれたネクタイに手を伸ばす。驚いたような徹の表情に、私は小さく笑ってキスをした。
【かくれんぼはもうおしまい】
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