2017

私は夢を見ていた。ずっと昔の記憶を辿る夢。母親のヒステリックな叫び声、父親の全てを諦めたような静かな声。二つの対照的な声を扉の向こうに聞きながら幼い私は泣いている。大丈夫、泣かないで。私は昔の自分の背中をさすってあげたくなる。ガラスの割れる音、早足で歩くハイヒール、扉が勢い良く閉められた。
目が覚めて私はベッドから上半身を起こし、ぼんやりと天井を眺める。どうやらまだ夜中らしい。しんと静まり返った部屋の空気は微動だにしない。
さっきまで見ていた夢を思い返す。最近よく見る夢だった。それはきっとザンザスが永い眠りから覚めたせいに違いない。そして、あんな無謀なことをするために遠い日本まで行ったせい。傷だらけで帰ってきたにもかかわらず、普段と何ら変わりなかったみんなの姿を見て安堵する一方で、どうしてでも止めるべきだったのだと私は深く自省した。暫くの間、ヴァリアーに任務は課されないとのお達しが出されたけれど、ボンゴレは私達無くして成り立つはずもない。光あるところには必ず闇が存在するのだ。暫くもすれば同じような日々が戻ってくるに違いなかった。

私が初めてボンゴレのお屋敷に行ったのは物心つくかつかないかの幼い頃だった。幹部であった父に連れられ、よく遊びに来たものだった。広いお屋敷の中でも人気のない裏庭が私のお気に入りだった。オリーブやミモザが枝を伸ばし、建物の壁には蔦が茂っていた。階段に腰を降ろせばそうやすやすとは見つからない。まるで秘密の隠れ家のようでワクワクした。無造作に植えられた花を摘んで飾ってみたり、時にはぬいぐるみとおしゃべりをしたり。日が暮れるころになると父が探すのに難儀するだろうと思い、自ら広い中庭に戻ったものだった。
いつからだっただろう、そこにザンザスの姿があったのは。九代目の傍らに立つザンザスはとても眼つきが悪かった。初めて彼の姿を見た印象はそれともうひとつ、なんて綺麗な目をしているんだろうということだった。静かに、けれど熱く燃える焔をガラスの中に吹き込めたような紅。吸い込まれる思いで眺めていた私と一瞬目があったけれど、そんなことを気にも留めずにザンザスは私の目の前を横切っていった。
冬の終わり、私がいつものように裏庭で一人遊びをしているとそこにザンザスがやって来た。私なんて目にも入っていないそぶりをするものだから、もしかしたら本当に私の姿が彼には見えていないのではないかと心配になって私はザンザスの顔の前で手を振った。「邪魔だ」鬱陶しそうに顔を背けたザンザスに「よかった、見えてた」と私は笑った。そんな私にザンザスは冷たい笑いを投げてよこした。人を小馬鹿にするような笑い。今でこそそう思うけれど、当時は幼さゆえにわからなかったのだ。それからお屋敷に行くたびに私はザンザスを探して回った。彼が在邸していれば邪険にされるのにも構わず後ろをついて回り、いなければ紙をもらって置手紙を書いた。兄妹のいなかった私は、同じような年頃の子供に会えるのが嬉しかった。父親の職業柄あまり近所との交流も盛んではなかったし、何より母が私を外に出したがらなかった。だから父の連れて行ってくれるこのお屋敷だけが、家以外での私の世界のすべてだった。
相変わらずのザンザスの態度に、周りの大人が眉を顰めているのは薄々感づいていた。けれど私はザンザスの素直さを素敵だと思った。たとえ一緒にお花を摘んでくれなくても、おままごとに参加してくなくても。おままごと。そう、裏庭でおままごとをするとき、ザンザスは遠巻きに私を眺めていることもあったし、私が座る階段の一段上に腰かけて「それの何が楽しい?」とごもっともな問いを投げかけてくることもあった。「じゃあザンザスはペットの猫役ね!」満面の笑みで言った時は髪を鷲掴みにされたけれど、どうして猫の配役にしたかの理由を告げると手を離してくれた。「眼が綺麗だから」と言った私をザンザスは訝しげな表情でまじまじと見た。そしてふん、と鼻を鳴らしたのだった。「私ね、初めてあなたを見た時とっても素敵な目だなぁと思ったの」「知るかよ」「好きだよ、ザンザスの目」はいどうぞ、とパンに見立てた葉っぱをザンザスに渡しながら私は笑う。勿論葉っぱは跡形もなく消されてしまったけれど、ザンザスは怒らなかったしそっぽを向いたまま暴言を吐くこともしなかった。
その日の夜の事だった。いつもと変わらない夕食を家族で済ませ、いつもと変わらないお休みのキスをして寝室へ行った後にそれは起こった。まどろみの外でガタンと大きな音を聞く。母が父に詰め寄る声。なだめる父の言葉にかぶせるようにして母は激情を吐き出していた。あの子に聞こえてしまうだろう。あなたが悪いのよ。恐る恐る扉に耳を当てると、二人の会話が聞こえてきた。途中、どんな内容だったかはもう忘れてしまった。いつもの優しい母はいなかった。私は怖くて悲しくて脚の震えが止まらなかった。そしていまでも決して忘れない母の言葉。「みんな大嫌いよ!この家も、あなたもあの子も全部、なにもかも!」力任せに扉が閉まる音がした。そこからどうやってベッドに戻ったのか、どのようにして眠ったのかは覚えていない。気が付けば朝になっていて、毎週末私を部屋まで迎えに来る父は少しやつれた表情で「さぁ、ボスのところへ行くよ。支度をしなさい」と私に言った。
霧雨が降る寒い日だったけれど、私は裏庭の片隅にある階段で膝を抱えて丸まっていた。家の中には母の気配がなかった気がした。気がした、と思い込みたいだけで実際にはなかったのだろう。幼い自分の手には負えない事だった。ただ母親の吐き捨てるような「大嫌い」の言葉だけが耳の中に張り付いて消えなかった。このまま夕方にならなければいいと願った。愛していた母が大嫌いと言ったあの家に帰りたくなかった。
不意に気配がして私は顔をあげる。そこにはザンザスが立って私を見下ろしていた。ザンザスの顔を見て安心した私は嗚咽して泣いた。彼はいつもと同じ定位置、私の一段上に腰かけて唇を引き結んでいた。「大嫌いなんだって」「……」「私なんていらないんだ」「……くだらねぇ」しゃくりあげる私にザンザスは言う。身体が氷のように冷たかった。ブーツを履いているのに足先はかじかんで痛いし、指先も上手く動かすことができないほどに冷え切っていた。このまま凍って死んでしまえたらどれだけいいだろう。何かで見た氷漬けのマンモスみたいに。楽しかった思い出だけを閉じ込めて。
どれだけの時間が経っただろう。雨は霧雨から大粒の雨へと変わっていた。石畳を雨粒が叩き、散った雫で辺りはけぶっていた。
「私の居場所、なくなっちゃった」鼻声で私は呟いた。するとおもむろに肩を掴まれる。勢いよく引かれたせいでよろめきながら振り向けば、怒ったような顔のままザンザスが口を開いた。「テメェの居場所はここだろ」それだけ言うとパッと手を離して、組んでいた脚を左右組み替えた。私は意味が分からずに瞬きをする。「それって、」と聞き返せばザンザスは立ち上がり、雨の庭に姿を消した。
結局父と母は離婚をし、私はマフィアの娘として生きていくことを決めた。後々わかった事だったけれど、私と父の血は繋がっていなかった。子供に罪はないと私を育ててくれた父の思いに報いるために私は必死に努力をした。その父も抗争に巻き込まれ数年前に他界した。どれだけ私を取り巻く環境が変わっても、私とザンザスの関係は変わらなかった。変わらなかったと言えば語弊があるかもしれないけれど、根本的な部分で私たちはあの日のまま今日まで生きてきた。例えばキスだとかセックスだとかをしたとしても。例えば片方が八年間氷漬けにされたとしても。
ボンゴレの人間はザンザスの事をただの乱暴な若造と思っているけれど、私はそうは思わない。ずっと昔、初めて出会ったあの日から。確かに彼は暴力的だけど、私を決して拒みはしない。手が出る分素直だとすら思う。感情のままに、欲望のままに、そして執念のままに。そんなザンザスに付き従うようにして私はヴァリアーに入隊をした。必然だった。それなりの努力は積んできたし、彼の傍にいられるのであれば勉強も鍛錬も苦ではなかった。

「おい」

目を覚ましたらしいザンザスの声は掠れていた。というより、あまりにも永く眠っていたせいで、まだ上手に声が出せないでいるようにもみえた。力強い腕にベッドの中へと引きずり込まれる。二人寝がこれほどまでにあたたかいものだったなんて、と私は改めて驚く。ザンザスの体温。あぁ、懐かしい。確かめるように彼の肌に触れる。九代目につけられた痕に指を這わせてザンザスを見上げれば、真夜中の獣みたいな目に射抜かれた。私の大好きな眼。視線を逸らすことが出来なくなってしまう。見てんじゃねぇよ。何回その言葉を聞いただろうか。

「夢、見てた」

「るせぇ、寝ろ」

「昔の夢」

触れ合った素肌に頬を擦り付けて言う私に、ザンザスは無言だった。
何故彼がこれほどまでにボンゴレのボスの座に固執するのか。最強のボンゴレを手に入れる、そうザンザスは言う。静かな呼吸の音に私は耳をすませた。薄く目を開いて暗闇を睨んでいるザンザスは、おもむろに私の髪にそっと触れる。珍しいな、と私は思う。そして、幸福だ、とも。
掴まれて床に押し付けられて足蹴にされて、それでもこうして時折優しい素振りをするのは昔からだった。ふと触れる指先だったり、何気ない一言だったり。気まぐれかもしれないし、そうでないかもしれない。この男の真意など、きっと誰にもわりはしないのだ。ザンザス自身にも。だって彼は、感情のやり場がわからなくて駄々をこねる子供みたいなものだから。なんてことを言ったらまた何が飛んでくるかわかったものじゃないけれど。いつだったか「私達も好き者よねー」とルッス―リアの言った言葉に、その場にいた私とスクアーロはつま先を見て黙り込むしかなかった。それでもこの男のことが好きだから。彼の持つ不思議な強い力に私たちは魅せられている。
私とザンザスの間には目に見えない何かが存在している。私はそう確信していた。男女のあれこれとかではなく、もっと深い部分でのつながり。複雑に絡み合い、もう決してほどけなくなった糸のような。幼少の頃、雨の降る裏庭で過ごした時間は静かにひっそりと、私たちの中で小川のように今でも流れ続けていた。

「やっぱりここが一番落ち着く」

「知るかよ」

「私の居場所」

ザンザス。名前を呼んで首に腕を回す。黒髪が鼻先に触れてこそばゆい。ボンゴレ、ヴァリアー、そしてザンザス。彼の目指す最強のボンゴレ。即ちそれは私にとっての揺るぎない居場所を意味していた。ずっと昔、拙い言葉でザンザスは私にそう言った。彼が覚えているかはわからないけれど、そんなことは重要ではない。私の中でその言葉は今なお息づいている、それで十分だった。

「ごちゃごちゃ言ってねぇで寝ろ」

同じように繰り返したザンザスは噛み付くように私にキスをする。形のいい唇、驚くほどに熱い舌。間近で私を見据える双眼の奥で、ちりちりと紅い焔が揺れていた。離れては近づき、また離れたかと思えば穿つように深く呼吸を奪われる。さっき見た悪夢の名残すら吹き飛ばすほどに激しい、嵐みたいなキスだった。ゆっくりと溶け落ちてゆく意識の向こう側で「name」とザンザスが私の名を呼ぶのを聞いた気がした。ザンザス。唇は輪郭だけを描き、言葉は夜の闇に溶けて消えた。

【愛し君への贈り物】
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