2017

春の雨。生ぬるく湿った空気はどこか物憂げで。けれどこの先に待つ生命の芽吹きを予感してか、気もそぞろな気配で満ちている。本丸の自室を抜け出して今日もまた私はこの部屋に入り浸っていた。政府への報告書、資金繰りの勘定票、読みかけの本などなどを携えてやってくる私を、この部屋の主である宗三左文字は何も言わずに迎え入れてくれる。「またあなたですか」と若干すげない表情はされるけれど。
この本丸に私がやってきて数年が経った。時々外の世界が懐かしくなることはある。まだ私が審神者ではなく、ただの人間だったころの居場所。外界に出ることが制限されているわけではない。政府関係者に呼び出されれば近侍を連れて赴くこともあるし、審神者の会議の時だってそうだ。はじめの内こそ懐かしさと寂しさのあまり度々外の世界に足を運んだけれど、今ではもうよほどのことがない限り私は外に出なくなっていた。どこに行ってもこの本丸以外の場所に、自分の居場所がないような気がしたのだ。
自分と空気との間に、薄く目に見えない膜が張っているような感覚。時間がほんの僅かずれているような錯覚。もしかしたら歪が生じているのかもしれない。ごくわずかな、けれど決定的な。
さあさあと心地いい雨音を聞きながらほんのりと湿った戦績表の束をめくっていると、背後から宗三が覗き込んできた。

「進捗は?全然手が動いていないようですが」

「宗三までそんなこと言わないで」

拗ねたように肩を竦めた私に宗三は溜息を吐いた。そして「私まで、ですか」と、少しむっとした声音で言うと立ち上がり、閉めきられていた障子を開ける。落ちてきた髪を耳にかけ、苔むした庭を眺める宗三。小首をかしげるような格好で、しどけなく脚を崩して。着物の裾から覗く踝は白く儚い。私は手にしていた戦績表を文机の上に置き、宗三の元へにじり寄る。近づくにつれて雨の匂いが濃くなってゆく。
「この本丸のどこにいてもあなたの気配がします」宗三は踝を撫でる私の手を取って、けれど視線は庭に向けたままひっそりと言った。前はそうでもなかったのですけど。そう付け足して、ゆっくりと瞬きをする。ただ雨が降る音だけがそこにあった。普段の賑やかさが嘘のように静かなのは、短刀たちがそれぞれ出陣し、遠征に出ているせいかもしれない。それでなくとも宗三の部屋はいつだって静寂に支配されている。

「貴方がここにきて、大分経ちましたね」

「うん」

今日の宗三はよく喋るなと思った。
数年前の日常が、遥か彼方へ押し流されていることを私は見て見ぬふりしている。そしてこの先、自分がどこに流れ着くのかも。たった一枚の紙で私の運命は大きく変わってしまった。はたして私はこの本丸で審神者としてうまくやっているのだろうか。並行世界を守る他の本丸の審神者と比べてどれほどなのか、自分の実力を私自身よく知らなかった。政府から特別改善の指示もされず、かと言って解任の命が下ったわけでもないところをみれば、可もなく不可もなくといったところなのかもしれない。幸いにも当本丸の刀剣男士からも、これといった苦情も出てはいなかった。
それどころか。私は息苦しくなって大きく息を吸う。投げやりな宗三の視線。私に触れる彼の指先は冷たく乾いている。
それどころか彼らは私に優しすぎる。ただこの本丸の主であるというだけで、無条件に私を受け入れてくれるのだ。たとえ表面上ではそっけなく見える態度だとしても。
不思議な安心感に包まれると同時に私は時々後ろめたくなる。ただ、審神者であるだけで。私はたったそれだけでこのように慕われて良い存在なのであろうか。彼らにとって私は愛すべき主君であれているのだろうか。
彼ら皆を愛おしいと思う気持ちが大きくなるのに比例して、いつかやってくるかもしれない別れが怖くなる。どうか、このままで。

「雨は嫌いです」

「そう?まぁ宗三は元が刀だものね」

「……それもありますけど」

「けど?」

「色々あるのですよ、僕にも」

雨垂の向こうを見やりながらそう言った宗三は、記憶の中にある数えきれないほどの雨を思いだしているように見えた。追憶、悔恨。私が知らない過去。遡ることはできない、いにしえ。私と過ごした数年なんて膨大な時の中のほんの一部に過ぎないというのに、どうして宗三の肌はこんなにも私に馴染むのだろう。人の形を与えられた神(そう呼ぶと決まって宗三は微妙な顔をする。神と言っても末席ですよ、と)である彼らと時を共にする私は、単なる人でしかない。
いつか私も彼の、宗三の記憶になるのだろう。それは定めであり世の理だ。どう足掻いても遠くない未来に私の肉体は消滅し、魂もろともこの世から消え去る。

「貴方まで浮かない顔をするの、やめてくれます」

辛気臭い。そう言うけれど、普段の宗三の方がよっぽど辛気臭い顔をしていると思う。つくねんと縁側に座って、目を伏せて、所在なく。

「審神者の任、いつかは解かれるのかな」

「……さぁ」

「その時はもう歴史を変えようなんて馬鹿なことする奴はいなくなったってことだよね」

「それに越したことはありませんよ」

私は宗三の髪の先を指で遊ぶ。桃色の、といってもただの桃色ではなく、舞い散る桜のようでもあり、東雲の朱鷺色に染まる雲のようでもある、美しい髪。ひと房手に取って顔を埋めればほのかに甘い香りがする。雨の日は、全ての匂いが濃くなる気がした。とろりとした宗三の、春の夕暮れみたいな香りを私は胸いっぱいに吸い込んだ。
もしも全てが終わってしまったら。
本丸で過ごす時間が長くなるにつれ、その考えを遠ざけるようになった。心地いい、ぬるま湯のような日々。戦いはあれども、これまで大事に至ったことは無く、“向こう“の世界で遭うような痛みを伴う別れを経験することもなかった。上から与えられた任をこなし、日々を送る。時間は流れ、季節は巡る。

「大切にされるというのも大変ね」

「どうでしょう。過剰に愛でられたところで、受け皿の大きさは決まっていますから」

宗三は腕を伸ばしてかざした指の隙間から庭を見る。零れ落ちてきた幾つもの愛。愛されるがゆえに彼は本分を全うすることも叶わず「かごの中に」閉じ込められていた。なんとなく宗三ならこの得も言われぬ感情を理解してくれるような気がして、ついそんなことを零してしまった。

「貴方がなにを考えているかは知りませんが、時というものは流れ続けるもの。つまり、歴史は紡ぎ続けられるのですよ」

「……そうね」

知っている。私が生まれるずっと前から脈々と紡ぎ続けられた膨大な時。全てをのみ込むうねり。私たちはその只中に立っている。審神者である限り、私はここで彼らと共に在るのだ。命が尽きるまで。昔と比べて少し細くなった腕を宗三と同じようにのばし、彼の手の甲に自分の手の平を重ねる。痩せた宗三の指は長く、白い。

「今日、この部屋で寝てもいい?」

「嫌と言っても居座るのでしょう?」

「御名答」

宗三ははぁ、とため息をついて「布団が狭くなる」とか「貴方の体温は高くて寝苦しい」とかぼやいている。
しとしとしと。雨は止む気配がない。無数の雨垂れに私たちはふたり閉じ込められる。

「あぁ、name」

「なに?」

名前を呼ばれて見上げた先には、怯むほどに美しい二つの瞳があった。じっと私を見つめる宗三。言葉の続きを促すように瞬きをする。

「貴方が望むのであればその願い、かなえてあげましょう」

宗三の口の端がほんの少し持ち上げられる。唇に触れる宗三の指は冷たい。まるで刃のきっさきのように。私は目元で笑う。

「私がなにを考えてるか、わからないんじゃなかったの?」

「末席ながら、僕だって神なのですから」

春の雨。甘い香り。庭先の梅の花。雨音だけがうるさい部屋で、私はそっと瞼を閉じる。

【えいえん、えんえん】
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