2017

(PCサイトより再録、加筆修正)

胎児のようにシーツの中で丸まっていた数時間前を思い出す。目を閉じて耳を塞いでしまえば悲しみも喜びも、何もない世界に身を横たえることが出来たのに。恋をするということがこんなにも己の身を、そして心をもじりじりと焦がすものだなんて。少し前の私に言ったところできっと信じなかっただろう。
道を歩いていて、突然現れた穴にすっぽりと嵌まってしまっただけ。初めはそう思っていた。けれど実際その穴は緻密に計算された上でそこに用意され、私がやってくる瞬間を息を殺して待っていたのだ。彼はそういう人間だった。計算高く何手も先を読み、周到に罠を張り巡らせておくような。
初めのうちはこんなことになるなんて思ってもいなかった。あの日と同じ、誰もいない資料室の片隅で一人考える。

あの日、ミケさんに言われてこの部屋に書類を捜しに行ったのは本当に偶然だった。昼下がりの埃っぽい資料室。その奥まった本棚の隙間に大きな身体をねじ込むようにして彼は眠っていた。普段見せる、感情を殺したような表情とは全く違う安らかな寝顔。世界の時間が、その一瞬止まったような気がした。いつも近くで見ているはずなのに、何故こんなにも胸がざわつくのだろう。
彼の少しかさついた唇に、触れてみたいと思った。音をたてないようにして一歩ずつ近づいてゆく。触れたい、触れてみたい、触れてもいいのだろうか。伸ばした指先が緊張でわずかに震えた。
あと少し。震える指先が唇をかすめたその瞬間、開いた窓の隙間から突然風が吹き込み、私の抱えていた書類を飛ばしていった。バサバサと乾いた音を立てて床に落ちる紙。さぁっと血の気が引き、背中をひんやりとした汗が覆う。視線の先、エルヴィン団長の瞼がゆっくりと開き、青い眼差しが私と交わった。
ああ、何ということだろう。一瞬驚いたように見開かれた目。そしてそれはいつも通りの(もしくは、仮に自惚れが許されるのであれば、普段よりも些かの優しさを纏って)凛々しい目つきが私の心を攫う。

「この場所で君に会うとは思わなかったな」

「す、すみません!お邪魔するつもりはなかったんです」

「いや、悪いのはこんなところでうたた寝をしていた私のほうだ」

「……すみません」

どうしよう、どうしよう。団長の唇に触ろうとしていたなんて恥ずかしい行いがどうかばれていませんように。心の奥を覗かれてしまう気がして団長の目をまっすぐ見ることが出来ず、私はわざとゆっくり書類を拾う。最後の一枚を手にしたその時、私の手首を団長が掴んだ。痛いほどに握られた手首から伝わる彼の体温に思わず視線を上げれば、思ったよりも互いの距離が近くて私は自然と後ずさる。

「団長、あの、痛いです」

「そうか、」

離してくださいと視線で訴えかけるけれど、受け入れられないその願い。有無を言わさぬ力が私の体を支配していた。ぐい、とおもむろに引き寄せられ声を上げそうになるけれど、唇に押し当てられた彼の指に押しとどめられて私はぐっと息を飲む。魔法をかけるように、彼は人差し指一本で私から声を奪う。
どうなってしまうのだろうという不安と、どうされてしまうのだろうという期待が胸の中で混ざり合って震え、吐息となって唇から零れた。
いたずらっぽい眼差しで私を覗き込む団長は、何かを察しているようだった。もしかしたら若輩な私の考えは、全てお見通しなのかもしれない。そう思った瞬間耳がかぁっと熱くなるのを感じ、視線を逸らさずにはいられなかった。

「ここは私のとっておきの場所なんだ、私だけのね」

「……」

捕まれた手首が徐々に上にあげられていく。いつの間にか背後には本棚が迫っていた。逃げ場を失い辺りを見回すけれど行き場などどこにもなく、仕方なく団長のタイのあたりを見つめるふりをした。

「何をしようとしていた?」

「何も、です。ただ、ちょっと見とれてしまって」

「私にかい?」

その眼は、少年のような輝きに大人のとろみを加えたような色彩を放っていた。それは私に、網にかかった獲物にゆっくりと近づく蜘蛛の濡れて艶めく眼を思い起こさせる。答えることが出来ずに腕を振りほどこうとしても、がっちりとつかまれ自由は望めそうにもない。困り果てた私は懇願の顔を団長に向ける。その意図を汲んでか汲まいでか、あっさりと私の腕ははなされた。

「私が君にしたいことを教えてあげよう」

伸ばされた両腕に肩と腰をつかまれる。

「団長、冗談はやめてください、というか仕事ちゅ、……」

触れたかった、好奇心のその先が今私の唇に触れる。そしてそれは思ったよりも湿っていて。

「いましがた君がそうしたいと思うよりもずっと前から、私はこうしたいと思っていたんだが……」

「私別に、き、キスしたいなんて思ってなかったです!」

「では、何をしようとしていたんだ?」

「その、それは……」

キスではなくて、あなたの唇にただ触れたかっただけだったんです。なんてどうして言えようか。キスがしたかったんです。と言うほうがよっぽどまともに思えた。

「さぁ、ミケが書類を待っているんだろう、行きたまえ」

「そうだった!……あれ、団長なんで私がミケさんに書類頼まれてること知って……」

「name、仕事はきちんとこなさないといけないだろう?さぁ、行きなさい」

「わ、ちょっと!だんちょ、」

振り返る私の背中をぐいぐいと押す団長はいったいどんな表情をしているのだろう。
知りたくて知りたくて振り返れば、私は再び唇を奪われた。

【おおかみの焦燥】
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