2017

彼女を初めて見たのは木兎さんに用があって教室を訪ねた時のことだった。木兎さんの斜め後ろの席に座った彼女は何か次の授業の用意をしていた気がする。気がするというのは冗談で、本当はその時机の上にあったもの全てを俺は今でもきちんと思いだすことができる。シャープペンに付いたパンダのキャラクターや、クリアファイルに入った課題のプリント。触れてもいないのにその手触りすら記憶しているほど鮮明に。
無茶ぶりをした木兎さんに彼女は「知らないよー」と眉を下げて笑った。「木兎くんってこうだから、きみも大変だよね」少し同情めいた表情を作って言った彼女に木兎さんは「こうってどんなだよ!」と賑やかな突っ込みを入れていた。
初対面だというのに、木兎さんと彼女の間に流れる空気を俺は羨ましく思った。同じ学年の、同じクラスというだけで彼らはこんなにも他愛無い会話を交わしている。
きっとその時から俺は彼女に恋をしていた。
以降俺が木兎さんの元を訪れるたび、彼女の姿を無意識に探していた。あれから数度言葉を交わしただけだったにもかかわらず、俺に気が付くと必ず彼女は小さく手を振ってくれた。それはとても小さな手だった。一年が経ち、学年が持ち上がっても木兎さんと彼女は変わらず同じクラスになった。主将と副主将という間柄、なにかしら顔を合わせて連絡することも多くなり、それをいいことに俺は去年よりも短い間隔で彼らの教室を訪れた。
一度気になってしまうと、校内のどこにいても俺は彼女の姿を探してしまう。ちらっとでも視界の端を掠めるだけで、その日は一日ふわふわとしたあたたかな気持ちで過ごすことが出来た。夏が過ぎて秋になった。バレー部の先輩たちは春高が終わるまで部に残るけれど、大半の三年生は受験勉強に精を出していた。部に所属していない(これは木兎さんからの情報だった)彼女は、図書室で勉強をしてから下校しているらしい(勿論これも木兎さんからの情報だ)。ごくたまに、外で走り込みをしている時に下校する彼女の姿を見かけた。友達と帰っている時もあればひとりの時もあった。夕焼けに染まった彼女はとても綺麗だった。
テスト週間に入ったため、部活はテストが明けるまでは休みだった。、手持無沙汰な日々がまた始まるとぼんやり思いながら廊下を歩いていた俺は、不意に背後から肩を叩かれる。誰だろうと思って振り返れば、そこには彼女の姿があった。

「あ……えっと」

「ゴメン、急に」

えへへ、とはにかむようにして笑った彼女。頭が傾いて揺れる髪先。何と呼べばいいかわからずに口ごもる俺に、「nameでいいよ」と彼女は親指を立てて目を細めた。苗字は知っていたけれど、まさか彼女の口から名前を聞けるとは思わずに、しかも名前で呼んでいいよとまで言われるとは。この一年半のもどかしさを帳消しにするような距離の詰め方に、俺は少なからず動揺していた。

「廊下で見かける事なかったから、つい声かけちゃった」

「あ、いえ、別に。ありがとうございます」

一体なにがありがとうございますなのか自分でもよくわからなかったけれど、それしか適当な言葉が出てこなかったんだから仕方ない。nameさんは俺が持っているワークの山を見ると「職員室に持ってくの?」と訊く。はい、と頷けば「引き止めちゃってごめんね。じゃあまた」と言って去ろうとした。頭で考えるよりも早く俺は「待ってください」と口にしていた。驚いたような表情をするnameさん。恐らく俺も同じような顔をしていたに違いない。

「あの、もしよかったら一緒に帰りませんか」

「うん。じゃあ職員室の外で待ってるね」

数学の教師にワークを渡し、二言三言会話を交わしたけれど俺は全くの上の空だった。少し尚早すぎではなかっただろうか。nameさんの表情を思い出しながら、勢いで一緒に帰ろうなんて無謀な申し出をしてしまったことを今更ながらに悔いた。けれどこの機会を逃したらもう次はないかもしれない。年が明ければ卒業まであっという間なのだから。
職員室を出ると、壁にもたれてつま先に視線を落としていたnameさんと目が合う。俺の姿を見つけてパッと笑顔になった彼女を、俺は改めて好きだと思った。

「すみません、お待たせしました」

「全然だよ」

「name、さん……も帰るところだったんですか?」

「うん。どうせ今日はひとりで帰るつもりだったし気にしないでね」

友人と帰らなくていいのだろうかと思い訊ねるも、nameさんは大袈裟に顔の前で手をひらひらさせてそう言った。今日はひとりで帰るつもりだった。ということは普段はやはり誰かと一緒に帰っているのだろう。当然といえば当然なのだが、俺はある大事な問題にその時気が付いた。もしかして彼氏がいるのではないのか。「そりゃー私だって彼氏ほしいよ!」と何かの会話の流れで言っていたこともあったけれど、それはもう半年ぐらい前のことだ。それ以降に彼氏ができた可能性は無きにしも非ずではないか。おおよそ、これまで自分が見てきた中で男の影はなかったが、nameさんについて俺が知っていることなんてほんの僅かじゃないか。

「あ、そうだ。赤葦くんがいつも教室来るたびに手とか振っちゃって迷惑じゃなかった?」

「いえ、そんなことないですよ」

むしろ嬉しいです。とは言えなかった。するとnameさんは気恥ずかしそうな表情を浮かべて「私さ、帰宅部だから後輩とかいなくて。だから、教室で赤葦くん見るとつい嬉しくて」と尻すぼみに言う。「ごめんね、木兎くんの後輩なだけなのに馴れ馴れしく。あ、嫌だったらやめるから!」と申し訳なさそうに付け足して。

「もしそんなふうに思ってるなら、一緒に帰ろうなんて誘いませんよ」

「あ、そ、そうかな。そうなのかな。だったらよかった」

こそばゆいような空気に俺は空咳をする。話したいことは山ほどあるのに、ただnameさんと並んで歩いているという現実を受け止めるのに精いっぱいだった。ほとんどの部が休みな所為で、昇降口は沢山の生徒でごった返していた。

「赤葦くんは背が高いから見失わなくていいね」

先に自分の靴を取って俺のところに戻ってきたnameさんは、二人の額と額を結ぶ仕草をした。「木兎くんとそんなに変わらない気がするけど何センチなの?」「182.3センチです。木兎さんの方が俺より少しだけ高いですよ」「へー。髪の毛分だったりして」「どうでしょうね」nameさんの笑い声が左側から聞こえてくる。ずっと、羨ましく思っていた。こんなにも容易いことなら、どうしてもっと早く行動に移さなかったのだろう。こんなにも近くで聞くnameさんの声の心地よさ。微かに伝わる体温と、飴みたいな髪の香り。

「部活、お休みだとつまらないでしょ」

偶然にも同じ方面の電車だったため、俺とnameさんは並んで駅まで歩く。普段先輩達と歩くスピードより、ずっとゆっくりの速さで。

「はい。でもたまにはいいと思います」

nameさんと一緒に帰れたので。とは、やはり言えない。けれど一方で、言ってしまってもいいかなと俺は思っていた。

「私も」

「……え?」

前を向いて歩いていた俺はその言葉の意味が分からず、nameさんの顔を見て聞き返す。すると心なしかnameさんは足を速めて「ごめん、間違えた」と誤魔化すように口の中でむにゃむにゃと呟いた。

「間違えたって、なにを……」

「急ぎすぎちゃった」

赤葦くんと、こんなふうに帰れるのが嬉しくて。つい本音を。
そう言って髪をいじるnameさんの耳は、見ているこっちにまで伝染するほど赤くなっていた。

「嘘、うそうそ!ゴメン、今のなし!」

立ち止まった俺たちを避けるようにして人波が割れる。ぶんぶんと頭を振るnameさんは俺と距離を取る。たった一歩俺が前に踏み出すだけで、開いた距離なんてゼロどころかマイナスにできるというのに。

「勝手に無しになんてしないでもらえますか?」

思いのほか声が不機嫌に響いてしまって俺は焦る。案の定nameさんは申し訳なさそうな顔でしょげてしまった。そんな顔もするんだ、と心の隅で思いながら、「違うんです、あの、怒ってるわけじゃなくて」と弁解するけれど、果たしてどう説明すれば彼女にわかってもらえるのだろう。

「俺も、嬉しいので」

そう言えば、nameさんは耳どころか顔まで真っ赤にして俯いてしまうのだった。ずっと好きだったので。それを告げるのはもう少し先でもいい気がした。俺たちはきっと、ここから始まるのだから。

【鍵の開く音は甘い】
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