2017

仕事と俺、どっちが大切なんですか。
同じ皿に乗りもしない仕事と恋人を天秤にかけるなんて真似をするのは、女だけだとずっと思っていた。
23時半、俺は台所の床に座り込んで頭を抱える。部屋にはカレーの匂いが充満していた。俺は大学四年生で、最後のモラトリアムを満喫するにはあまりにも膨大な時間を持て余していた。就活も卒論も終え、単位も申し分なくそろっている。ただあるのは余白の時間と、nameさんに会いたいという重たすぎる気持ちだけだった。
ごめんね会社の飲み会きゅうにいかなきゃいけなくなって。ひらがな交じりで送られてきたメールを見たのは、カレーの鍋にルーを入れた時だった。今日は早く帰れるからと朝言っていたから、俺が夕食を作ると申し出た。去年まで実家暮らしだった俺はほとんど料理なんてしたことがなかったけれど、社会人になりひとり暮らしを始めたnameさんのアパートに入り浸ることが多くなるにつれて少しずつメニューのレパートリーが増えていった。
社会人になる前にひとり暮らしに馴れておきたいから、なんてもっともらしい理由を親には言ってあるけれど、実のところ会う時間が減ってしまったnameさんとせめて夜から朝まで一緒にいたくてアパートを借りたようなものだった。口うるさくない親とはいえ、頻繁な外泊にはきっといい顔をしないだろうから。
去年までは学生同士だったのに、社会人と学生とがこんなにも距離を感じるとは。新入社員は何かと気苦労も多いのだろう、nameさんの笑顔は前よりも少し大人びてしまった。
ずっと、この人は俺よりも年上なのにどうしてこんなにも幼い笑い方をするのだろうと不思議に思っていた。小さくて、細くて、ハレーションを起こすほどの眩しい笑顔を見せるnameさん。俺が彼女の手を引いていなければ迷子になって、どこかでひとり泣いてしまうんじゃないか。そんな風にさえ思っていた。
実際はそうではなかったし、心のどこかで俺も彼女の強さを知っていた。でも、俺はいつまでもnameさんの傍でか弱い彼女を力の限り抱き締めていたかったのだ。我ながら妄執に取りつかれているとはわかっている。わかってはいるけれど、どうにもできなかった。
時々たまらなく苦しくなる。俺の知らない「会社」で、俺の知らない「nameさん」が他人と時間を共有しているということに。
馬鹿なことを考えていないでシャワーを浴びよう。立ち上がってまた嫌になる。彼女が帰宅して、晩ご飯か風呂のどちらを希望してもすぐにそうできる準備をしていたことに。こんなのまるで通い妻じゃないか。そんな風に思うこともたまにあるけれど、どうしようもないくらいに彼女のことが好きなのだから仕方がない。
最初は逆だったのに。頭から熱いシャワーを浴びながら数年前を思い返す。nameさんはいつも必死だった。たったひとつしか違わない歳の差を埋めるために。見ているこっちが呆れるぐらい俺に遠慮をして、気持ちの先回りをして、そして一人で傷つき悩んでいた。
重きを置く部活において常にフォローをする役割だった俺にとって、nameさんの行動は新鮮だった。彼女の努力もわからなくはなかったけれど、いったい俺のどこに彼女がそこまで心を砕いてくれる要素があるのか、それだけは皆目見当もつかないのだった。後に身をもって知る羽目になろうとは、その当時の俺は知る由もない。
ただ、好きという気持ちだけでいい。見返りなんて期待しない。自分の隣にいてくれれば、それで。閉じた目の、瞼の上を湯が迸る。会いたい。今すぐにでも。会ってこの腕で抱きしめたい。衝動的な激情に駆られて俺は浴室の壁に爪を立てる。
やっぱりバレーを続けるべきだった。これでは感情のはけ口があまりにもなさすぎる。無心でボールを追っていた日々が酷く遠くに感じた。耳元で響く水音の向こうに、俺は携帯電話の着信音を聞いた気がした。勿論気がしただけで、実際には沈黙したままであることを知っている。
腰にタオルを巻いただけの恰好で、俺はさっきと同じように台所の床に座り込む。シンク下の収納扉が火照った背中にひんやりと心地いい。冷蔵庫から取り出したチューハイを開けて喉に流し込む。甘ったるくて弱い炭酸。風呂上りの身体にアルコールが駆け巡る。カレーの鍋はコンロに置きっぱなしだ。炊飯器の中の米も炊いたまま手を付けていない。時計の針はもうすぐ0時半にさしかかろうとしていた。相変わらずnameさんからの連絡はない。酔っぱらって潰れてしまったのだろうか。もしそうだとしたら、同僚が家まで送るのだろうか。もしnameさんが男なんかに担がれて帰ってきたら……。
空白の時間は精神衛生によくない。知らない間にネガティブな妄想に蝕まれてゆく。俺は大きく息を吸って吐く。余計な思考を身体の外に追い出すように。床にチューハイの缶を置くコツンという音が、やけに大きく響いた。
おもむろに、玄関に鍵が刺さる音がする。勢いよく立ち上がった俺は危うく足元の缶を蹴り飛ばしそうになりながら玄関へと向かった。

「京治!」

「おかえりなさい」

nameさんの着ているコートは夜の冷気を纏っていた。倒れ込むようにして抱き付いてきたnameさんを受け止めながら、俺はこっそり彼女の髪の匂いを嗅ぐ。すっかり消えそうになっているシャンプーの香りと、誰かが吸った煙草の残り香。そして。

「カレー?」

「はい。作ったんですけど、また明日にでも食べましょう」

「ごめんなさい」

心から申し訳なさそうに謝るnameさんに「寒いから奥に行きましょう」と言うのが精いっぱいだった。謝ってなんかほしくなかった。カレーなんてどうだってよかった。コートを脱いだnameさんの手を取り俺は風呂場へ連れて行く。今さっき使ったばかりなせいで、浴室には蒸気が充満していた。

「京治?どうしたの」

「俺の知らない匂いは嫌です」

「あ、ごめんね。煙草臭かったよね」

「違います。そんなんじゃない」

困惑気味に揺れるnameさんの瞳。どれだけ言葉を尽くしても、きっとわかってもらえない。たかが一年、されど一年。彼女が埋めようとした一年という時間の中で、俺は今もがき苦しんでいる。大学を出て彼女と同じように働くようになれば、こんな惨めな気持ちにならなくて済むのだろうか。そうしたら今度はnameさんが「仕事と私、どっちが大事なの」と俺に言う番なのだろうか。
俺は浴室の床にnameさんを押し倒す。

「っ、怒ってるよね。そうだよね。ご飯、せっかく作ってくれたのに飲み会なんか行って、帰りもこんな時間で」

「怒ってません」

「でも、」

ひた、とnameさんの手が俺の頬に触れた。俺は今どんな顔を彼女に向けているのだろうか。ほとんど泣きそうになりながらnameさんの隣に身体を投げる。「ごめんね」とまた謝るnameさんに頭を撫でられて、まるで年下扱いなのだった。ブラウスは少し濡れて脱がせにくかった。ブラジャーから零れた乳房に俺はそっと手を伸ばす。

二人で入る湯船は狭い。俺の脚の間に小さくなって収まっているnameさんの、抱えた膝がゆらゆらと水中で揺れている。

「明日、やっと休みですね」

「ね。長かったようであっという間の一週間だったなぁ」

そう言うとnameさんは、うーんと伸びをして俺の胸に背中を預けた。「俺は長かったです、一週間。特に今日は」彼女の指に自分の指を絡めて、白いうなじに唇を寄せる。くすぐったそうに竦められる肩。

「バイト、なんでやめちゃったの」

「もういいかなと思ったんです」

「でも暇でしょ」

「暇ですね」

暇と言われたらそれまでなのだが、生憎俺はnameさんのことを考えるのに忙しいのだ。当の本人に言うにはあまりにも重たすぎる言葉というのは承知しているから黙っているけれど。それに、と俺は心の中で付け足した。それにバイトなんてしていたら、あなたに会う時間が減ってしまうじゃないですか。

「暇な時間こそ大事にしなよ?」

「やめてくれます、そういうの」

「先輩面してみたかったの!職場じゃ私が一番下だしさ」

振り返って笑ったnameさんの顔は疲れもあってか俺の目に儚く映る。

「明日、休みなら今晩は夜更かししても大丈夫ですね」

「え、っとそれは」

「カレーのお詫び分ということにしておきます」

「怒ってないって言ったのに!」

「一週間、nameさん不足だったので」

漏らした本音にnameさんは「素直でよろしい」と、また得意げに言うもんだから俺はつい我慢が出来なくなって彼女の耳に舌を伸ばした。
すっかり冷めてしまったカレーを容器に移す傍らで、のぼせて真っ赤になったnameさんが炊飯器から釜を取り出している。洗ってドライヤーをかけた髪はさらさらとして、いい香りがしている。鍋をシンクに置いて、俺はnameさんを後ろから抱き締める。息を吸えば体中に甘い香りが広がって、たちまち俺は幸せな気持ちになってしまう。俺の知っているnameさんがここにいるという揺らぎない安心感。

「カレー、食べたかったな」

「残念でしたね」

「あれ、そう言えばご飯手つかずだったけど、京治は晩ご飯食べたの?」

「食べてませんよ」

「やだやだ!今からでも食べなよ」

身体を反転させて言うnameさんに俺はキスをする。「別にいいですよ」これからnameさんを頂きますので。にやりと口の端を持ち上げた俺を見て、nameさんはのぼせた顔を更に真っ赤にする。「一週間働いてへとへとなのに」「ていうか、さっきもしたのに」と言い訳がましく呟いている彼女を抱き上げてベッドへ行く。洗い物はもう明日でいいや。なんて思ってしまう自分に笑いがこみ上げる。「だったら俺が癒してあげましょうか」溜まりに溜まってわだかまった感情が、口を開いた傍から溢れ出す。
あなたの為ならなんだってしますよ、俺は。掃除だって、料理だって。だから俺の傍にいてくださいね。いったいどこまでなら言葉にしてもいいのだろう。
かつて彼女が数えきれないぐらい俺に言ってくれた「好きだよ」という言葉。時には笑顔で、時には泣きそうな顔で。その全てを俺は覚えている。でも、彼女の言う好きと俺の言う好きは似て非なるもののような気がしてならない。
俺の中にあるのはもっとどろっとして、何もかもを覆い尽くしてしまうような「好き」なのだ。
nameさんの白い身体に覆い被さる。寝室と台所、扉を一枚隔てていてもカレーの香りがここでもうっすら漂っている気がした。

【おままごとにはやさしさを】
(フォロワー様の素敵な呟きより。本当にありがとうございました)
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