2017

「今日はよく星が見える気がする」

nameさんは俺を振り返って言う。少しはしゃいだような笑顔を可愛いなと俺は思った。「そうですか?」確かに空気の澄んだ今日のような日は、東京でも幾分か星の明るさが増している。

「たとえばどの辺の星がよく見えるんですか?」

「ほら、あれとか、あそことか……」

わざわざ数歩後ろを歩いていた俺の隣に戻ってきたnameさんは、人差し指で夜空を指差す。そう言われればよく見えるような気がするけれど、日が暮れてからも煌々と眩しい街灯りに溢れたこの東京では、大した星なんて見えやしない。
「あれはなんていう星座かな」こっちを時々見上げて、名前も知らない星に目を凝らすnameさん。ぐるぐるに巻いたマフラーから覗く鼻先はうっすらと赤くなっていた。

「オリオン座、とかじゃないですか」

「あー!あったねそういうの」

「だいたいそれじゃないですか?冬の空に見えるのって」

あとは何座があるのかな。立ち止まって上を向くnameさん。わずかな星を人差し指で繋いで「ぎょうざ」「正座」「ピザ」としょうもない冗談を言う彼女は、それでも木兎さんのように同意を求めてこない分俺としては楽だった。

「帰りましょう、風邪ひきますよ」

夜空をさまようnameさんの人差し指を絡め取ると、びっくりするほど冷たくて、まさか本当に風邪をひいてしまうんじゃないかと心配になる。そして彼女の手を握って自分のコートのポケットに入れたけれど、呑気に「あったかいね」と笑うnameさんの赤くなった鼻や耳を見て、いっそこの場で彼女の身体が隅々まであたたかくなるように抱きしめてあげたいとさえ思うのだった。

「私あんまり風邪ひかないんだよ」

「あぁ……」

「その"馬鹿だからですよね"みたいな目で見るのはやめて!」

「まあ、それもちょっと思いましたけど」

「赤葦くんのその正直なところ好きだよ」

憮然とした表情で言うnameさんの告白に俺は少しだけ笑う。「それはどうも」と言うと、「あ、でも他にもたくさんあるよ、赤葦くんの好きなところ」とnameさんの表情が急に明るくなった。今にも「他にもたくさんある俺の好きなところ」を無限に挙げだしそうなnameさんに、「あの、」と俺は言葉を挟む。
本当は彼女の挙げてくれる俺の美点をずっと聞き続けていたいけれど、それは少しこそばゆい。そして、たぶん俺はnameさんが思っているよりもずっと不完全で独善的だと思うから、屈託のない笑顔でまっすぐ言われてしまうと、かすかに罪悪感すら感じてしまう。
彼女の理想になりたい。そう思うのはきっと俺が年下だからなのだろうか。性格的にも見た目的にも、はたから見れば十中八九俺の方が年上に見えるに違いないし、いってしまえばnameさんだってそんなことを気にしているようには全く思えない。
ただこれは単純に、俺自身の問題なのだ。

「クリスマス、どうしますか?」

「どうしますかもなにも、部活だしねー」

「終わってから、どこか行くとか」

「この寒い中?」

「星、見に行きませんか」

思い付きで言った言葉だった。部活後に行ける場所なんて限られてる上に、門限だってある。現実的ではない俺の提案に、それでもnameさんは「行く」と前のめりの返事を寄越す。

「うんと沢山見える場所がいいなぁ」

駅の改札を通るために離れた手を、俺たちは再び繋ぐ。邪魔にならないように、通路の端を歩きながら。

「……本当に、行けたらいいですね」

単なる願望だとnameさんもわかっていたらしくて、「そうだね」と残念そうに視線を落とす。
不自由で窮屈。高校生という身分を、俺はつくづくそう思う。
もっと沢山のことをしたいし、もっと沢山のものを見たい。nameさんと一緒に。
お互いの両親はある程度寛容だけど、あまり心配をかけたくはないし、真剣なだけにnameさんの親に悪い印象を持たれたくはなかった。遅くなれば必ず家まで送ったし、必要とあらば挨拶もした。
「いつもごめんなさいね」「これからも仲良くしてやってね」そんな言葉を掛けられるたびに、俺は密かに誇らしい気持ちになった。nameさんだけでなく、彼女の親にも存在を認められているのだ、と。
本当は、門限も、制服に縛られたなにもかもを捨ててnameさんをどこか遠くに連れ去ってしまいたいのに。
でもそんなことはできないから、三本だけ電車を見送った。
ようやく乗り込んだ電車は思いがけず空いていた。ふたりで並んでシートに座れば、向かいの窓に映った自分と目があった。電車の中はむわっとしていて、埃っぽい。

「ねぇ赤葦くん」

「はい」

「いつか、絶対に行こう」

「どこにですか?」

「星が沢山見える場所」

左隣に座るnameさんを見る。その瞳の奥に数えきれないぐらいの星々を見た気がして、しばらく何も口にできずにいた。次の駅を告げるアナウンスが流れ、俺はようやく「はい」とだけ答える。
いつか。
次の春、彼女はもういない。卒業するだけ、と何度も自分に言い聞かせているのに、毎日会えなくなると考えるだけで、まるで世界から彼女が消えてしまうような気持になってしまうのだ。徐々に会う回数が減って、自然と別れに向かってしまったら。大学で、バイト先で、彼女が年上の男を好きになってしまったら。制服の呪いから解き放たれて自由になったnameさんが、俺の世界の外に羽ばたいていってしまうのではないかという途方もない不安。大学生と高校生という肩書の差だけなのに、自分がひどくちゃちな存在に思えて仕方がない。
一年、そのたった一年が、足枷となって俺の自由を奪うのだ。
彼女の言う「いつか」は、もう永遠にやってこないいつかなのかもしれない。

「いつがいいかな」

無邪気な言葉に俺は口ごもる。来年、それとも再来年?全く想像のつかない未来を約束することが、俺は怖かった。nameさんを好きであるがゆえに。

「いつがいいでしょうね」

「じゃあ、赤葦くんが大学入ったらにしようか」

「……」

「嫌?」

嫌なわけがない。無言で俺は首を振る。

「nameさんは……」

言いかけた俺をnameさんが見上げたところで俺たちの降りる駅に電車が滑り込む。ひとまず降りなければと席を立ち彼女の手を取るけれど、何故かnameさんは立ち上がろうとしなかった。

「どうしたんですか?」

「続きは?」

聞くまで降りないつもりらしい。背後で閉まる扉の音を聞きながら、これはマズいのではないかと今更ながらに後悔した。もっと無難に受け答えすればよかった、と。

「別に、大したことじゃありませんよ。含み持たせるような言い方してすみません」

「嘘。赤葦くんのそういうところ、嫌い」

さっきとは正反対のことをズバリと言ってのけるnameさん。いつもは俺の手の中でふにゃふにゃと形を変えるぐらいの頼りなささえあるというのに、こうなった彼女は手の施しようもないほど頑固になるのだ。特に、俺が不安な色をちらつかせてしまった時には。
次の駅に向かって走り出す電車。暗闇の中に真冬の夜が広がっている。
眉間に皺を寄せるなんて滅多にしないから、普段のnameさんより大人びて見えた。そうやってまた、俺から離れていってしまうんだろうか。

「言ったら答えてくれますか?」

「うん」

俺の質問が、なにかも聞かないのに。
俺はnameさんのそういうところが、好きだ。

「二年後も、nameさんは俺といてくれるんですか」

「えっ?」

ぽかんとした顔をしたnameさんに、何かおかしなことを言っただろうかと俺まで「え?」と間抜けな声が出た。

「赤葦くんって時々失礼だよね」

「……すみません」

一転、拗ねたように唇を尖らせたnameさんに俺はただ謝るしかなかった。そんな俺のコートの袖をいじりながら、nameさんはため息をつくと、「赤葦くんは?」と目を伏せたまま訊き返す。今度は俺が「え?」と言う番だった。

「あ、赤葦くんはどうなんですかと聞いているのです」

「なんで敬語なんですか」

おかしくなって俺が笑えば、つられてnameさんも笑顔になった。

「だって、」

こういうこと聞くのって恥ずかしいもん。髪の毛をいじりながら消えそうな声でnameさんは言う。まあ、確かに。

「俺は、いたいですよ。だから星、見に行きましょうね」

「……」

顔をあげないnameさんは、髪に触れていた手を降ろして俺の膝の上に乗せる。
次の駅に着いて、また走り出す電車。それでもなにも言わないnameさんを俺は覗き込む。

「私は、二年とかじゃなくって、そういうのじゃなくて、」

俺にだけしか聞こえない声のヴォリウムで、nameさんは言う。つまり、彼女の言わんとしていることは。

「わかってますよ」

嘘だ。わかってなんかいなかった。そう、強がりだ。俺は彼女といると、時々つかなくてもいい嘘や必要のない見栄を張ってしまう。矮小だと思いながら、そうでもしないと隣に立てないような気がして。
それでも、だからこそ、nameさんの言葉が嬉しかった。その後に続けられた「ずっと」という三文字だけで、ひたすらに幸福になれた。
夜の街を駆け抜けてゆく電車に揺られながら、俺たちは肩を並べる。

「流れ星、見れるかな」

「見れますよ」

nameさんが望むなら、空は洪水のような流れ星でいっぱいにだってなるだろう。
折り返しの電車の中で、左腕にnameさんの重みを感じながら俺は目を閉じる。「いつか」彼女と見るはずの星空を、まぶたの裏に思い描きながら。

【空白の時間へ伝えること】
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