2017

(PCサイトより再録、加筆修正)

トントントン。包丁がまな板を叩く音が、私しかいない部屋に小気味よく響く。皮を剥き丁寧に芽をくり抜いたジャガイモを一口大に切ってゆく。まるまる三個分を切り終え、それを白い琺瑯の鍋に移しかえる。ひたひたまで水を入れ火にかけ、リビングから引っ張ってきた椅子に腰かけた。大丈夫、これは何でもない日常の中の一場面なんだ。

とても恐ろしい夢を見た。何か巨大なものに食べられる夢。食べられているのは自分のはずなのに、どうしてか食べる側の感触、肉を噛み切るときのそれ、が目覚めてからもやたらリアルに口に中に残っていた。時計は深夜三時を少し回っていたけれど、どうにも再び寝付くことが出来ずにベッドをそろりと抜け出した。
キッチンへ向かい、グラスにミネラルウォーターを注ぐ。開いたカーテンの向こうには、漆黒の闇に浮かび上がるビルの明かりや流れるテールランプがまるで宝石のように滲みながら輝いていた。酷く頭痛がして私はこめかみに手を当てる。きっとさっき見ていた夢のせいだ。一口ずつミネラルウォーターを口に含んで飲み込めば胸の裏を駆け抜けて、その冷たさはストンと順序良く胃の中に納まってゆく。
シンクにグラスを置き、ふと肌寒さを感じてナイトガウンの襟元を寄せ合わせる。いつの間にこんなにも涼しくなったのだろう。
いつだって季節は急ぎ足だ。昔は私が先を行き、後から季節ついてきた。けれど今となっては、追いかけるどころか取り残されているような気さえする。すっかり冷たくなってしまった指先をすり合わせ、私は寝室に戻った。
清潔なシーツのかかった広いベッド。そこに横たわるリヴァイを起こさないようにそっと身体を滑り込ませる。ギ、と小さく軋んだスプリングの音にひやりとして横で眠っている(はずの)彼を見遣れば、眠たげに眼を少し開いたリヴァイと目が合う。

「……どうした?」

「ちょっと目が覚めちゃって。ごめんね起しちゃって。」

「……」

そうか、と起きているのだか眠っているのだかわからないほどの小さな声(それも殊更掠れた)でリヴァイは返事をした。
彼の髪は寝癖がつかない。驚くほどに。朝、洗面台の鏡の前でドライヤーと櫛を巧みに使ってどこかしらはねた髪を直す私を横目で見ながら、リヴァイはいつも涼しい顔をして歯を磨いている。その細くやわらかな髪を手で梳いてやれば、ぴくぴくと音もなく瞼が揺れた。起きていれば決してしないであろうに、私の手に指を絡ませ眠る彼の顔をしばらく眺めて、私も静かに目を閉じた。

結局朝になれば、夜更けの頭痛もすっかり良くなっていた。スクランブルエッグを素早くかき混ぜベランダに植わったミニトマトをちぎり、パジャマのまま眼鏡をかけ新聞を読むリヴァイの前に朝食を慌ただしく並べているうちに、あれほど恐ろしいと思った夢の大半はどこかに流されていってしまった。
「行ってくる」と鞄を手に取ったリヴァイを玄関まで見送り頬にキスをする。彼は決まって眉を顰めるけれど、キスが返ってこなかった日は一度たりともなかった。バタン、と扉が閉まり一人の時間がやってきた。
そして今、私はジャガイモをぐつぐつと煮ながら再び襲ってきた頭痛と対峙している。あの夢の細部をどうにかして思い出そうとするけれど、要所要所に思考が触れる度にズキズキとこめかみが痛んだ。あり得ない光景、あり得ない出来事、それは日常の崩壊だった。金属音と風の音、そしてそこには確かにリヴァイがいた。
記憶の底に潜りすぎたのか、あまりの痛みに固く目をつぶったその時、鍋が噴きこぼれ、私は急いで立ち上がる。丁寧に灰汁をすくい、水気がなくなるまで煮崩したジャガイモをボウルに移す。粉チーズと塩コショウ、レモン汁とドライパセリを加えてざっくり混ぜこれでもかというぐらいにマヨネーズを入れる。白くこんもりとしたポテトサラダを眺める私の目から唐突に一粒、涙がこぼれた。
遠い昔の記憶、昨晩、いや、いつか見た夢?リヴァイと出会うもっとずっと昔、私は彼を知っていた。理由も証拠もない、けれど私は確信していた。デジャヴュ、という言葉にしてしまえばそれで終わってしまう。けれど、そうだとしても、それはあまりにも現実離れした既視感だ。
突然けたたましく携帯電話が鳴る音で我にかえった私は、急いでそれを手に取り通話ボタンを押す。

「name、俺だ。早めに終わったから後二十分ほどで帰る」

「わかった、気をつけてね」

電話の向こうから聞こえてくるざらついた声。まるで砂漠の砂嵐を越えて会話をしているような気がして、聞きなれたはずの声なのにそれは恐ろしいほどよそよそしく響く。
パンを切り、焼きあがった舌平目のソテーにディルを添え、冷やしておいた白いんげんのポタージュにパセリを散らす。カトラリーを並べ終わったところで玄関のチャイムが鳴った。

「おかえりなさい」

「ああ」

スーツから部屋着に着替えたリヴァイが席につき、私は冷蔵庫からポテトサラダをとりだした。
じろり、リヴァイがとある一点を見つめる。視線の先には真っ赤なミニトマトが二つ、好き勝手な方向を向いてサラダの横に添えられている。唇をへの字にしてフォークを握るリヴァイがまるで小さな子どものようで(彼に"小さな"は禁句である)思わず口元が緩む。

「駄目だよ、好き嫌いは」

「別にトマトが嫌いなわけじゃねぇ」

「あれ、私トマトが、なんて言った覚えないけど」

「くそが」

ち、と小さく舌打ちをしてフォークの先でつやつやとしたトマトをつつく。二、三度その表面を滑ったあと、ぷすりと突き刺さる。その拍子に弾けた皮からトマトの果汁が私の手の甲に飛んだ。赤いその実が彼の口の中に収まり、咀嚼され、嚥下される。何とも忌々しそうに飲み込むや否や、リヴァイはグラスに注がれた水に手を伸ばした。
なんて満ち足りた食卓なのだろう。何の申し分もない、完全な世界。寄り添った二つのトマト、並んだ温かな食事、穏やかな時間。
それなのにどうして依然として頭の片隅がじんじんと痛むのだろう。まるで心臓がそこにあるかのように、鼓動のリズムに合わせて痛みが刻まれる。
二つ目のトマトが、彼の舌に乗る。赤いトマト、赤い舌、白いポテトサラダ。それらの織り成す鮮やかさに瞬間目を奪われる。彼の歯が薄皮を突き破り、瑞々しい果肉が真っ二つに引き裂かれる。

「ねぇリヴァイ」

「なんだ」

「最近、変な夢見なかった?」

「変なって、漠然としすぎだろ」

「うーん、自分が食べられたりとか、そういう」

「……ない、なんだよそりゃ」

「さぁ、そんな感じの夢を今朝見たの」

「ストレスでも溜まってんのか」

「そういうんじゃないと思うけど。でもね、そこにリヴァイもいたんだよ」

「そんなとんでもねぇ夢に俺を勝手に登場させるな」

「それで、私食べられちゃうの」

こんな風に、そう言って私はミニトマトを指でつまみ口の中に放り込む。プチ、と実が爆ぜ酸っぱいような甘いような青臭さが口いっぱいに広がった。

「今晩セックスしようと思ったんだがこりゃ止めだな。さっさと風呂入って寝ろ」

「いやいや、疲れてないしストレスも溜まってないよ。ただの悪夢だよ、あんなの」

「だとしても怖ぇよ、んな夢」

「まぁね、確かにその夢見てからなんだか頭痛いし」

「だったら風邪だろ、最近急に寒くなったしな」

「うわぁ、最悪。マジで今日は早く寝よ」

そう言ってスープを飲み干した私をリヴァイは何か言いたげに見つめてくる。

「それより今日のお魚、美味しいでしょ」

「あぁ、それなりに」

「えぇ、何よそれー。言いたいことあるならはっきりどうぞ」

「俺はトマトが嫌いだし、今晩はセックスをする」

「あぁ、そう」

適当に受け流す私に送られる恨みがましい視線を軽くあしらいながら舌平目にフォークを突き立てる。外側に叩いた片栗粉は絶妙な焼き色が付きパリリと香ばしく、そして一筋ナイフを滑らせればほっくりと脂の乗った白身が湯気とともに現れる。口に入れれば仄かなバターの香りが広がり鼻腔を抜け、粗めに挽いた黒胡椒が緩んだ舌をピリリと引き締めてくれる。
きっとあれは単なる悪夢で、きっとこの頭痛も風邪の始まり。私の日常は昨日も今日も明日も壊れはしないし、これからも続いていく。昨晩きっと私は、こことここ以外の狭間に迷い込んでしまっただけなんだ。
そして恐らく人はそれを夢と呼ぶ。
テーブルの下で私の膝を蹴るリヴァイの脛をひと蹴りして、私は白くきらめくぽってりとしたポテトサラダを頬張った。

【五臓六腑も意のままに】
(20130911)
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