2017

僕が彼女を慕っているのはきっと刷り込みと同じことだと思っていた。肉体を与えられ、再び刀としての勤めを果たすことを可能にしてくれた主。
はじめまして。そう言って笑った彼女のやわらかそうな唇や、頬。揺れる髪やどことなく恥じらいのある指先。そんな全てを今でもはっきりと覚えている。
触れたいと思った時、触れられないもどかしさ。あのね、宗三。雨が降りしきる夜、かき消されそうな声を聞き漏らすまいと息を呑んだ。「好き」ただそれだけ。口にした本人がうろたえていたのだから、告白を受けた僕がうろたえるのも当然だったと思う。そうなんですか。なんて。我ながら阿呆(ああ、魔王の言葉を借りれば、そう、うつけ、ですね)だった。「どうしたらいいか、わからなくて」泣きそうな顔をしていたnameは寒さのせいなのか、はたまた雨夜のせいなのか、普段よりも青ざめて見えた。
とっさに彼女の手をとったのは、ただ、悲しげなnameを見たくなかったからで。けれど、そう、僕の手なんか彼女の小さく冷たな手をあたためるほど温くはないというのに。
むしろ、刀であったはずの僕が彼女に触れることなど。

「僕は貴女を幸せにはしてあげられません」

そっと静かに手をおろす僕に、nameは「なぜ」と言った。言ったというよりも、その形に唇が動き、空気だけが漏れたような音がした。依然、雨は竹槍のように降り注いで庭土をえぐっているにもかかわらず、激しい雨音はいつの間にか遠ざかっていた。

「僕は、人間ではありませんから」

「宗三、」

一歩、こちらに歩み寄った彼女から同じぶんだけ身を引いた。腕を伸ばしても届かない距離に。nameの顔がさらに歪むのを見て、左胸がひどく傷んだ。こんなことになるのなら、陽の目を見ることなく籠の中に捕らわれていればよかった。そんなふうにさえ思う。
この雨はまるで檻だ。僕とnameを閉じ込める。
どれだけの時を重ねてきただろう。これまでのことを思えばnameと過ごした時間は微々たるものだけれど、春先の野原のように生き生きと満ち足りていた。
互いを見る視線に、他の誰かに向けるそれとは異なる熱を感じはじめたのはいつの事だっただろう。振る舞いこそ変わらないとはいえ、挙動に含みや僕と彼女にしかわからないような間が生じ、僕達がそれを認識する頃には既にゆっくりと坂道を転がりはじめていた。
行く末が明確な幸福であれば喜んでこの手を差し伸べたに違いない。

「……関係ないよ」

そう言って飛び込んできたnameの身体を受け止めながら僕は天を仰ぐ。こんなのは、まるで、身投げじゃありませんか。
はじめて腕を回した身体はやわらかく小さかった。ふと脳裏をよぎる、肉を断つときの感触。想像してしまう。何故なら僕は刀だから。それでも今は、人の身を与えられている。触れ、抱きしめ、愛おしむことができる。たとえそれがかりそめだとしても。

「貴女には関係ないでしょうね……」

僕を見上げたnameの、大きな目。ころころと表情の変わる彼女が好きだった。
末席とはいえ神の端くれと愛を交わすなんて。結末などわかりきっているじゃないですか。

「それでも」

好きだよ、宗三。
苦しそうに吐き出したnameは僕の胸元にしがみつく。恋とはこれほどまでに苦しいものなのか。
お願い、離さないで、ずっと、側にいて。
nameは泣いていた。押し殺した声で。泣きたいのはこちらの方だ。いくら愛しあっても、貴女は。

「そう言う貴女が、いつか僕を置いていくくせに」

ずるいですよ。続けた言葉は重なった唇に溶けて消えた。
幸福な思い出だけを抱えてひとりゆく貴女。遺されて永劫を生きる僕はどうしたらいいのだろう。この身を捨てて、またもの言わぬ刃に戻れば、あるいは。
けれど腕の中にあるぬくもりと甘やかな香りがただただ幸福で。このままふたり、貫かれてしまえば幸せなまま永遠になれるのだろうか。
飽きるほど見聞きした男女のあれこれを、いま身を持って知ることになろうとは。
nameのやわらかな髪に指を通しながら目を伏せると、稲光があたりを真昼のように照らしだした。
あぁ、これはまるでうつつと冥府の狭間に二人で立っているようではないですか。

【さよならバスにはきみしか乗らない】
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