2017

暑い。まだ昼餉も済んでいないというのにうだるような暑さだった。庭の鹿威しが鳴る音を聞きながら、手にした団扇を動かすのすら面倒で。冷たい渡りの床板にペタリと頬をつけたまま、私はそこから動けずにいた。
三成は朝早くから領地の検地に赴いていた。家康のことさえ絡まなければ彼はああ見えて有能な統治者であった。全ては秀吉さまのためにという信念が念頭にあるとしても、升で計ったようにきっちりとした裁量と、秀吉さまから賜ったこの近江の地を豊かにするための税制は農民から町民、果ては寺社仏閣の者々たちから極めて優れた善政と一目置かれているのだった。とはいえあの性格と物言いのせいで、いささか損をしているような気もするけれど。
ぬるい風に庭隅に植えられた笹の葉が乾いた音を立てる。少し前まではたっぷりと房を垂らした藤の花がシャラシャラと、まるで鈴の音が如くやかましいぐらいだったのに。
過ぎてゆく季節に置いていかれたような気持ちだ。まだ冬の中にいる気がするのに、肌はじっとりと汗ばんでいる。
左近がいないだけマシかな、と思うけれど、彼のいない城内はどこか寂しげで。
半兵衛さまの目元、川で冷やした瓜、雪の庭の南天。思い浮かべれば、多少は涼がとれるかとも思ったけれど焼け石に水。はぁとついたため息のぬるさに、私は身じろぎをして床のまだ冷たい部分に手を伸ばした。
朝から晩まで働いて、それでもなお疲れた様子など微塵も見せない三成の行く末を思うと少し怖くなる。手が届きそうなほど近くを入道雲がゆるやかに流れていた。栄華を極める豊臣も、ああしていつかは悠久の時の一部になってしまうのだろうか。私達の(私と三成の)命のほとんどは豊臣とともにあった。蝉時雨。茹でた枝豆のつやつやとした緑。里芋の葉に溜まった朝露。血を吸った刃。三成のやわらかな髪。まつげの影。そんなささやかな思い出をかき集めて、私は佐和山の城で横になったまま膝を抱えている。

「おい」

日の位置が真上になっているせいで、渡り全体が日陰になっていた。いつの間にかうとうとしていたらしい。たった数刻会っていないだけなのに三成の眉間の皺が懐かしかった。おかえり、と言おうとした私の声はかすれていて。三成がいないと声の出し方すら忘れてしまう。

「女がこのようなところで寝るな」

女が。三成の言葉に私は楽しい気持ちになった。普段は(特に戦の時とか)そんなふうじゃないくせに、彼はたまに私を女扱いする。ずっと昔、まだ私達がほんの子供だった時から一緒にいるのに、どうやらそれでも三成はちゃんと私を女だと思ってくれているらしい。

「どうだった?」

「おおむね順調だ」

大きな反対にあうこともなく三成が検地を遂行できているのは恐らく彼の出がここ近江であるということに加えて、良くも悪くも私利私欲を肥やすことなく公平に徴税をしているからだ。厳しすぎる部分は人心の分かる左近と吉継が上手い具合に補って、この近江の地は悠然と広がる湖の如く潤い、行き交う商人と地の民で賑わっている。

「夕餉までには帳簿に纏める」

「帰ったばっかりなのに」

「ならば貴様も手伝え」

なんでそうなるかなぁ。そう言った私は、でも嬉しい。三成のそばで仕事ができるということが。
「起こして」と寝転がったまま手を伸ばせば三成は私の手首を掴んで引き起こす。

「あーしまったー足がもつれたー」

「わざとらしい真似をするな、暑苦しい」

勢い余ったふりをして三成の胸に倒れこむ。暑苦しいと言うわりに彼の肌はからりと乾いていた。彼の肌が濡れる時を思い出す。白い肌があたたかく湿る様と、ひそやかな息遣いと、朱くなった目元と。
今しがたの馬鹿みたいな私はどこかに消えて、真面目に三成を欲しいと思う自分がいた。けれどその気持ちをそっと押さえ込んで私は無邪気な笑顔を作った。

「仕方ないから手伝ってあげる」

「当然だ」

私のわがままを三成はゆるしてくれる。だから私は滅多にわがままを言わない。
城の中は静かだった。山々から響く蝉の声のせいで、余計にそう思えた。三成の部屋はなおさら。しん、と静まった部屋の中で細い花筒に生けられた露草が鮮やかだった。私が今朝摘んだ露草。

「紙を取ってくる」

「いいよ、私が行く」

腰を上げかけた三成を制した私を、彼が制し返す。

「どうせ厨に寄り道するんだろう。私が行くほうが早い」

確かに厨に寄ろうと思っていたけれど、それはお菓子を頂戴するためではなくて(頂戴はするけどね)三成にお茶をいれてあげたかったのだ。あと、軽い昼餉など。そうしたら必然的に紙束は後回しになるので、二度手間になって時間がかかるのは必然だけど。あ、だったら一緒に行けばいいじゃない。と手を打った私を三成は呆れた目で見る。仕事にさっさと取り掛かりたい。その顔にはでかでかと書いてあった。

「貴様がいるとなにも進まん」

「手伝えって言ったのは三成だよ」

「そうだったな。では失せろ」

では失せろとはなんとひどい言い様だろう。あんまりじゃないか。「失せません」と三成にじゃれかかる私の身体をひらりと避けて彼は腰をあげる。

「name、」

脛にしがみつく私に鋭い視線を寄越すと、三成は屈みこむようにして私を引き剥がす。かまっている暇などない、と言いながら部屋を出た三成の後を追って廊下に出ると、真昼のぎらついた太陽の熱に眩暈がした。
一瞬で汗ばむ肌。はた、と私は三成の手を取る。怪訝そうに振り返った彼の唇を素早くかすめ取ると、自然「部屋、戻ろ」というなんとも不埒な言葉が自分の口から飛び出した。虚を突いた私の発言に、少しだけ目を見開いた三成は一瞬の間をおいて「莫迦か貴様は」とあきれ顔を見せる。ですよね。私は自分でもどうしてそんなことを言ってしまったのか(まだ真昼だというのに!)いささか後悔するのであった。

「暑さにやられたかも」

「だろうな」

一歩踏み出そうとした三成は、何かを考えるようにして足を止めるとくるりと此方を振り向いた。そして「どうしたの」と私が訊くよりもはやく、私の唇に自分のそれを重ねたのだった。何が起こったのだろう。現実の出来事?それとも陽炎のまぼろし?

「……今年は暑すぎる」

言い訳がましくそう言って、ふいっと顔を背けた三成のさらさらと涼しげな髪から覗く耳が、わずかに色づいているような気がした。「そう、だね」と阿呆みたいな相槌を打って私はその場にへたり込んでしまいそうだった。

「三成、最近働き過ぎじゃない?」

好き。という代わりにそんなことしか言えなくて。蝉時雨。鹿威し。ぺたぺたと廊下を歩く二つの足音。左近のいない城の夜はさぞかし静かなものなのだろう。ことさら声には気をつけなければ。なんて。思っていることはきっと三成にはお見通し。ああでも帳簿が終わってからなのだろうな。はやく、ほしい。はやく。喉の付け根が熱くなって息を大きく吐いた私を、三成が背中で小さく笑う。そのひんやりとした目元は、今宵桜色に染まるのだろう。

【瞬きの中に棲む獣】
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