2017

俯いて、ノートに英文を書いているnameさんを向かい側から眺める。外では蝉が鳴いていた。時々考え込むように頬をシャープペンの先でつつきながら、すらすらとアルファベットの列を増やしてゆく。

この前合宿で会ったばかりだったのに、お盆をはさんで俺はすっかり寂しくなってしまった。細い手首や、やわらかい唇。
携帯電話で毎日連絡はしているけれど、そんな文字だけじゃとてもじゃないけど物足りない。ベッドの中で、何度も思いだしては苦しい気持ちになって、時々我慢できずに電話をかけた。握りしめた電話の向こう、nameさんはいつもと同じ穏やかな声で俺の話に相槌を打ったり今日の出来事なんかを語ってくれた。
でも、そのうちに会話が途切れて静寂が訪れる。微かなノイズ。その中の、彼女の息遣いを感じながら眠ってしまいたかった。
おやすみなさい、と囁くように言ったnameさんの声。どうしても通話を終わらせることができない。俺も、nameさんも。「会いたいな」ぽつりとnameさんが吐き出したひと言に、俺は呼吸ができなくなった。

部屋は冷房が効いていて肌寒いぐらいだった。半袖のnameさんの白い腕に、真昼の光がさしているのが綺麗だった。俺の課題、物理のプリントはいっこうに進んでいない。目の前にいるnameさんを感じるので精いっぱいなのに、どうして課題なんかに手が付けられるだろう。
「俺の家で課題やりませんか?三日間、親が旅行でいないから」なんて常套句で彼女を誘ったのは二日前だった。両親の旅行はずっと前から決まっていたのにぎりぎりまで連絡をしなかったのは、あまり前もって声を掛けるのは「いかにも」な感じがして嫌だったのだ。
nameさんに用事がって駄目ならそれまで、と思いつつ、彼女の予定があいていることを何度も願った。誘う文面を何度も書いては消し、保存しては消し。目的はあくまでも課題をすることで、両親が不在であるということはただの蛇足。言い訳みたいに思いながら、でもやっぱり結局はそういうことだった。
俺たちはまだ高校生だから。つやつやとしたnameさんの爪を見ながら思う。大人がするみたいに、好きな時間に好きなだけ愛し合えたらどれだけ幸せなのだろう。抱き合って眠りについて、朝起きたらnameさんが隣にいるなんて。考えただけではちみつ色をした幸福で手足の先までひたひたに満たされた。

「赤葦くん?」

「はい」

「全然進んでないみたいだけど大丈夫?」

文系のnameさんには多分よくわからないであろう数式を、それでも彼女は覗き込む。難しそうだね。と言って俺を見上げる彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。

「大丈夫じゃないですよ」

全然、全くもって大丈夫じゃない。身じろぎしないで言うと、「どんな問題やってるの?」とこっちの気も知らず、机に身を乗り出してnameさんは訊く。前かがみになったせいで、緩んだ胸元から胸の谷間が覗いていた。
そう、結局は。
ぐしゃ。自分の腕の下でプリントが皺になる音がした。なんとなく、だらしないような気がして皺のついたプリントは好きではなかった。けれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。
寒いぐらいエアコンが効いているにもかかわらず、身体の中で上昇を続ける熱。

「……まだ午前中」

そう言ってnameさんは身を引くけれど、離した唇を俺はまた追いかける。
時間なんて、関係ない。馬鹿みたいな力強さで俺は思った。
まるで子供だ。
与えられて我慢ができるほど大人ではない。かといって人前でがあからさまな態度を取れるほど幼くもなかった。
nameさんの前ではどうにも上手く取り繕えない。幻滅されるだろうかと不安になることもある。なにより俺の方が年下なのだし。元から大人びているとは言われるけれど(木兎さんが隣にいるからなおさらに)、俺はきっと、彼女が思っていたほど冷静で分別のある(16歳にしては)大人びた男ではなかったはずだ。
とはいえ、nameさんも年上とはいえないほどに子供っぽいと俺は思っている。そう言うと彼女は心外だという顔をするのがまた面白い。

「だめですか?」

少し首をかしげて、小声で訊ねる。
知っているから。
彼女が拒まないことを。
視線を逸らして数度まばたきをして、そして数ミリだけ首を横に振る。

「だめじゃないけど、」

「けど?」

明るいの、恥ずかしいから。震えたみたいな囁き声でそう言ったnameさんの、形のいい耳が赤く染まっていた。明るくたっていいじゃないですか。俺は言う。彼女の身体を引き寄せながら。俺の腕の中にすっぽりと収まってしまう小さな身体。好きだ、好きだ。わきたつ甘い香りに恍惚とする。

「全部見ててあげます」

気持ちよくて泣きそうな顔も、キスを恥ずかしがる顔も、眠りに落ちるその瞬間も、起き抜けの寝惚けた顔も。全部、全部。焼き付けて絶対に忘れませんから。とは照れくさいから口にはしなかったけど。
nameさんは何も言わず、俺の胸元にしがみ付いて縮こまってしまう。明後日、彼女が帰るまで何回キスをするだろう。それよりも、何回……。

「赤葦くん、意外と肉食だよね」

「嫌ですか」

三回、四回。唇が重なる。

「……その反対」

かもしれない。なんてこの期に及んで逃げ腰なnameさんを俺は押し倒して、白い首筋に歯を立てた。

【月の秘密をおしえてよ】
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