2017

自主練が終わって後片付けの時間。他の部員がサポーターを外したり汗を拭いている中、モップを器具庫にしまいに行くnameさんの後を追うようにして俺はボールの入ったカゴを押してゆく。
器具庫の中は暗くて湿っぽいにおいがした。モップを持ち上げて、モップかけに掛けるnameさんの背中。髪を結んでいるせいで露わになったうなじは、暗がりで生々しい白さをみせていた。
ガチャガチャと金具が鳴る。よし、とnameさんは言って俺の方を振り返った。

「あとは鍵しめるだけだね」

「はい」

「私やっておくから、赤葦くん先に行っていいよ」

「いえ、だったら俺も一緒に行きます」

「お腹減ってるでしょ。本当に、気にしないで」

それはnameさんもじゃないですか。と俺が言うのと同時に、彼女のお腹が小さくグゥと鳴ったのが聞こえてくる。さすがにこの状況で知らんぷりを決め込むのもどうかと思ったので、俺は「ほら」とひと言だけで反応する。
nameさんは恥ずかしそうに俯いた。

「な、なんかこういうのって、少女漫画とかだとよく外から鍵かけられて、閉じ込められちゃうんだよね」

話題をそらしたかったらしい。
なんとも安直な発想だと思う。実際はそんなことあり得ない。誰かが気付くに決まっている。でも。

「内側から扉を閉めておいたら、もしかしたら誰もいないと思って鍵かけられるかもしれないですね」

背後の重たい鉄製の扉に手をかけた俺に驚いたのか、nameさんは慌てたような顔をして「だめだめ、だめだよ!」と言う。

「嫌ですか?」

「えっ?」

「俺と閉じ込められるの」

もしもの話だというのに、彼女は真剣に考えている。嫌じゃないけど、でもトイレが、とか、お風呂だって入ってないし、とか。頭を抱えて。
この人はいつだって真っ直ぐだ。たまに(しょっちゅう)間違った方向に真っ直ぐ進んでいくのが危なっかしいけれど、それもひっくるめて俺はnameさんのことが好きだった。
高2の春に告白をして付き合うことになったものの、梟谷と音駒、別々の学校なため頻繁に会うこともできなくて、だからたまにある合宿は特別だった。
nameさんは黒尾さんと孤爪の幼馴染だった。彼らを、特に同級生の黒尾さんを、羨ましく思わないといえば嘘になる。俺の知らないnameさんを彼らは沢山知っている。
過去だけならまだいい。現在もそうなのだから、彼氏としては釈然としないのだった。
仕方ないと頭でわかっていても、そう簡単に割り切れることじゃない。過ごす時間は確実に彼らの方が多いのだ。
もし黒尾さんと孤爪がnameさんの幼馴染でなければ、俺はこんなどす黒い気持ちに悩むことは無かったのだろうか。いや、きっとそうじゃない。もし俺が彼女の幼馴染だったとしても、同じ学校だったとしても、結局俺は何かしらの理由をつけて彼女を自分だけのものにしたいのだろう。
誰かに対してこんなにも執着心があったなんて。

「赤葦くんとなら一時間でも二時間でも、10年でも100年でも、いいよ」

なーんて。あはは。とnameさんは笑う。屈託のないその笑顔は、俺の心にある暗がりを明るく照らしてくれるようだった。

「ミイラになっちゃいますね」「流石にその前に誰か気付くと思うよ」「そもそも100年もこの高校あるんですかね」「建て直しするのかな」なんて、しょうもない会話。じりじりと間合いを詰めていたことに気付いていなかったらしいnameさんは、いつの間にか俺と壁との間に挟まれ驚いた顔でこっちを見上げた。
ゆっくりと伸ばした両腕でnameさんを囲う。

「でも、約束できない将来なら俺はいりません」

「……、」

幼馴染よりも、恋人という肩書の方がずっと軽い。別れてしまえばそれでおしまいだ。くっつくこともない代わりに、終わることもない関係とは格が違うような気さえした。そんな風に思うのは自分に引け目があるからで。正直俺はnameさんを手放すつもりなんてないし、いつかは結婚したいとさえ思っている。重たい男だと自分でも感じるけれど、俺をそんな風にさせたのはほかでもないこの人なのだ。不条理な責任転嫁をしたくなるほど、俺は自分でもどうしようもなくなっている。
容易く、たとえ冗談だとしても、将来のことを口にするnameさんの無邪気さに俺は少し苛立っていたのかもしれない。という事実に俺はまた薄暗い気持ちになる。

「本当だよ」

「……え?」

nameさんは俺の右手を取って彼女の胸のあたりに持ってくる。

「私はずっと、赤葦くんと一緒だから、」

約束。そう言って俺の小指と自分の小指をからませた。
はにかんだ笑みの眩しさに、いっそ悲しい気持ちさえ覚える。どうしてまっすぐに愛せないんだろう。nameさんはこんなにも……。

「はい」

そう絞り出すように言って、俺はnameさんの身体を倒れ込むようにして抱き締めた。彼女の背後に壁がなければ、おそらくそのまま崩れ落ちていた。
nameさんはあまい匂いがした。小さくてふわふわしていて、やわらかい。
この先俺は自分の爪で彼女を傷つけてしまわないだろうか。抱き締める腕が苦しいからと、彼女に腕の中から逃げられてしまわないだろうか。
確かにnameさんはここにいるのに、俺は不幸な未来ばかりを想像してしまう。

「疲れちゃった?」

髪を撫でる手のぬくもり。「キスしてもいいですか」訊ねた時には既に唇が重なっていた。
大丈夫。ここは死角だから、開け放たれたドアの向こうからは見えはしない。

【まるで丘を泳ぐ魚】
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