2017

これ、どうぞ。そう言って差し出した櫛を受け取ると、彼女はそれをつまんで持ち上げたり手のひらに乗せてみたりして、ありとあらゆる角度から眺める。
その挙句「櫛?」とこちらに訊ねるのだから、贈り甲斐がないにもほどがある。櫛以外の何に見えるんですか、と答える声が幾分呆れていても仕方がないというものだった。

「素敵」

「それぐらいはわかってもらえたみたいで嬉しいですよ、僕は」

牡丹の花の彫りが美しいと思った。

「でも私、髪結わないしなぁ」

残念そうに言うnameの髪は味気も色気もない黒のゴムで、無造作にひとつに纏められているだけだった。

「年頃の女子ならもう少し身嗜みに気を配ったほうがいいと思いますけど」

「できることならしたいけど、山盛りの書類に畑仕事して挙句一緒に出陣してたらこれが限界」

大仰な溜息をついてnameは天井を仰ぐ。
まぁ、確かに。近頃の彼女の忙しさは異常だった。僕を含めてまだ両手で数えるほどの人数しか本丸にいなかった頃に比べて、顔を合わせる時間も肌を合わせる時間もぐんと減ってしまった。
彼女が部屋にこもっている時に訪ねても追い返されることはない。でも、うっすらと目の下に浮かぶ隈を見れば無粋な邪魔などできないのだった。
そんな彼女に櫛を贈ったところで使ってもらえるとは微塵も思わなかったけれど、なんとなくしてみたかったんだと思う。人の真似事が。

「じゃあ、僕はこれで」

そう言って立ち上がりかけると、nameに着物の裾を掴まれた。

「髪の毛、やって」

櫛を顔の横でひらひらとさせながらnameは笑う。そして「宗三の髪、いいよね」と続けたのに、「あなたと違って器用なので」と返せば「失礼な!」とあからさまに頬を膨らませる。その単純さが好きだし、羨ましかった。

「髪触られると眠たくなる……」

「寝不足なだけでしょう」

「あはは」

何がおかしいのか。頭を揺らして笑うnameの、無造作に伸びた髪を梳く。つやつやとした柔らかな髪。幾度となく指を通したけれど、おそらく僕はこの手触りの虜になっている。
選り分け、編み込み、結び、とめる。造作のないことだ。すべてを終えて先ほどの櫛を差しこめば、選んだ自分で言うのも何だけれど、中々よく似合っていた。

「できましたよ」

そう言って手鏡を差し出すと、nameは嬉しそうに顔をほころばせた。「ありがとう」とあまりにも屈託なくこちらを見て言うものだから、僕は少し照れてしまう。

「みんなに見せてくる!」

と、勢い良く立ち上がったnameの腕を、気が付けば強く引いていた。バランスを崩して倒れ込んできたnameを抱きとめ、腕の中に収める。「宗三?」と不思議そうに覗きこむ彼女の黒い瞳に、不機嫌そうな顔をした自分が映っていた。

「駄目です」

むざむざ他の者に晒したくなんかない。なんで、という問いにそう答えることはできなかったけれど。あっという間に燃え広がる嫉妬と独占欲。

「せっかく綺麗にしてくれたのに勿体無いじゃん」

「だったら、」

乱してしまいましょうか。
押し倒したはずみで櫛が畳を転がった。美しく彫られた椿。櫛はまるで落ちた首のようだった。ぞわぞわと身体の中が泡立つのを感じる。
細い手首をつかむ指に力を込めれば、nameの大きな目がまん丸に見開かれる。だめだよ。首を横に振るのに、その頬は赤みがさしていた。
さっきまで愛おしいと思っていたのに、どうして今はこんなにも壊してしまいたいと思うのだろう。胸に刻まれた呪い(と、それを僕は呼ぶ)が明らかに熱をもっていた。
額に、頬に、首筋に。そして暴いた胸元に唇を押し当てる。

「そう、ざ」

「あなたの髪を結うのも、乱すのも、僕だけでいいんです」

慣れない髪型にはにかんだ笑みも、普段は隠された白いうなじも、後れ毛も、知っているのは僕だけでいい。

【ぼくは窮屈な胸を焦がす】
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