2016

風が頬に心地いい。nameはゆっくりと瞬きしながら息を吸い込む。
ワイヤーを巻き取る乾いた音が、流れゆく景色を追いかけるようにして鼓膜を揺らしている。視界も思考も全てがクリアだった。葉のこすれる音、木陰の裏に潜む気配、僅かに感じる熱。
左前方から巨体が現れるや否や、nameの後方から勢い良く飛び出したリヴァイ。その速度ゆえ姿はもはや人の形をとどめておらず、煙をまといながら残像となっていた。
深緑のマントを翻しながら振りかざした刃をリヴァイは躊躇なく巨人のうなじに滑らせる。手腕はさすが人類最強と言われるだけはある。何度見ても彼の無駄のないブレードさばきは称賛に値するものだった。
地鳴りとともに爆風を巻き上げながら倒れ伏した巨人の向こう側から更に三体。彼に後れを取る訳にはいかない。nameは指先のトリガーを数度、確かめるようにしていじるとアンカーを射出した。
重力など無関係の世界でnameは宙を翔ける。リヴァイを追い越す一瞬彼と目が合った。討伐数なんざ数えるだけ無駄だ。興味のない口ぶりで、彼がしばしば討伐数だとか補佐数だとかを競い合っている部下達に言っているのを聞いたことがあった。
掻き切るのではなく撫で切るようにして刃を立てる。肉を裂く感触がnameの手のひらに伝わった次の瞬間にぐらついた巨体が前のめりになる。ごわついた頭髪を蹴落とすように踏み台にして飛び上がれば、最大に吹き出したガスの推進力によってnameの身体は地上はおろか巨人の頭上遥か上空へと飛びあがった。

「まだ来るの?嫌になる。次から次へと」

「見えているより数は多い。適当にあしらったら戻れ、だそうだ」

顰めっ面をして巨木の枝の上で腕組みをしたnameの隣にミケが降り立つ。遅参を詫びた彼を見上げ、nameの眉間の皺が更に深くなったのは言うまでもない。

「ミケ、遅い」

「悪いな」

「しかも適当にあしらったら戻れって。団長さまはやる気があるんだかないんだか。ハンジを見習って欲しいものだわ」

「ハンジなみに息巻いて巨人に向かう私を見れたら満足か、name?」

薄く笑みを浮かべたエルヴィンがこの場に現れたことにnameが驚いた顔をしたのもつかの間、彼女は怒りの形相で彼に詰め寄る。

「ちょっと、なんであなたがここにいるわけ?前線は任せろって言ったわよね。指揮はもっと後方でして。あなた自分の立場わかってるの?」

食ってかかる勢いのnameの頭上でエルヴィンとミケが目を合わせる。強気な彼女には実力もあいまってか、団長であるエルヴィンですらたじたじなのだった。

「で、リヴァイは?」

「少し先まで行ったら戻るように言ってある」

「なにそれ、どうして私は行かせてもらえないの?」

不満げなnameの頭にミケが手を置く。

「name、そのへんにしておけ」

「助かるよ、ミケ」

「ミケはエルヴィンの肩持ち過ぎ!」

エルヴィンの向こう脛を蹴らんとnameが足を振り上げたところにリヴァイがやってくる。

「戻るぞ。今回はこれ以上先には行けそうもない」

「確かに臭いがいつもより強い」

「場所が悪かったか」

胸ポケットから地図を取り出し何かを書きつけると、エルヴィンは途端に表情を引き締め「撤退だ」と短く告げた。それを合図に四人は離散する。
疾駆する馬の腹をなおも蹴り、追走してくる巨人を翻弄しながら壁に向かうnameは視界の端にリヴァイの姿を捉え歯噛みした。

「はい、書類」

「ご苦労」

今回は、壁外遠征とは大々的に銘打たない、調査兵団の中でもごく限られた上層幹部のみで行われた演習と訓練を兼ねたものだった。
より詳細な地形の把握、兵站拠点の設置場所や進軍経路の見極めに加え、模型では得られない実戦感覚を養うために時折外部に秘密裏に行われている。
短時間でそれら全てを遂行せねばならず、かつ犠牲を出さずに帰還することが最優先なのだが、どうやらnameは今日の成果に納得がいっていないらしかった。

「どうして私を先遣にしなかったの?」

「何度も言うが先遣はリヴァイの役目だ」

「いっつもリヴァイばっかり」

「name、拗ねるんじゃない」

眉間にしわを寄せて一歩踏み出したnameのあまりの剣幕にエルヴィンは苦笑するが、どうやらそれが彼女の癪に触ったらしい。一瞬真顔になったnameはエルヴィンのデスクの前まで歩み寄ると、手にした書類を叩きつけるようにして置いたのだった。

「子供扱いしないで」

怒りのこもった眼で自分を見据えるnameに、エルヴィンは表情を変えることなく出された書類を受け取った。

「子供みたいなものさ」

穏やかなエルヴィンの言葉はどこか楽しそうで。しかしnameは彼の言葉をそのまま受け取り、まさに火に油を注ぐといったところだろうか、ぐるりとデスクを回り彼に掴みかからんとする勢いだった。

「君に初めて会ったときはまだほんの子供だったはずなのに、いつの間にかこんなにも頼り甲斐のある部下になっていたなんてな」

驚きだよ。と茶目っ気のある瞳でnameを見れば、単純なnameは思いもよらない率直な賛辞の言葉に顔をサッと赤くして口ごもる。
確かにnameの実力は訓練兵時代から突出しており、周りからも憲兵団入りは確実と有望視されていた。しかし彼女は憲兵団ではなく調査兵団への入団を希望したのだった。
「自分の実力を試したいだけ」ときっぱり言い切ったnameは、調査兵団に入ってからもその言葉に違わず他を圧倒する成果を上げ異例の速さで出世し分隊長の座についた。
中にはその昇級によくない噂を流すものもあったが、「君についてくだらない風説を流す輩がいるが気にするな」とエルヴィンに言われるまで彼女自身気に留めたこともなかった。
さらにエルヴィンはnameの手を取り引き寄せると、彼女の耳元に唇を近づける。

「私は君をかっているんだ。だからその子生意気な態度も甘んじて受け入れている。が、あまり度が過ぎればこちらとしてもそれなりの対処をせねばいけないな」

ハッとした表情をして身を引こうとするnameであったが、流石にエルヴィンと彼女とでは体格も腕力も差がありすぎる。身動きが取れないままnameはバツが悪そうに視線だけを彷徨わせた。しかしそれもつかの間、彼女はエルヴィンをまっすぐに見ると「対処?やれるものならやればいいわ」と言い捨てた。

「いいのか?」

「甘んじて受けるわよ」

人が見れば高慢で目上の者へ敬意を払わぬ無礼者であるが、エルヴィンにとってはどうやらそうではないらしい。
唇の端にいたずらな笑みを僅かに乗せたかとおもうと、nameが身の危険を察知するよりもはやく彼女の唇を掠め取った。

「な、んの……つもり?」

「甘んじて受けると言ったのは君だろう?」

「そうだけど、それは、そういうのじゃ、」

さっきまでの勢いはすっかりなりを潜めてたじたじのname。そこに付け入ろうとするエルヴィンは、腰掛けていた椅子から立ち上がるとnameを腕の中に閉じ込めたまま腰をかがめて彼女と視線を合わせた。そのまま身を乗り出したエルヴィンの圧迫感に負け、nameの身体は徐々に背後のデスクに向かって押し倒されてゆく。

「な、に……ちょっと、」

「さて、次はどうしようか」

内心エルヴィンはnameの動揺が面白くてたまらない。普段は上司はおろか巨人にさえ臆することなく毅然と立ち向かっていくあのnameがだ、己の腕の中でこんなにも狼狽えているのだからそれ程この男にとって面白いことはない。いたずらになおも迫れば、みるみるうちにnameの目には涙が盛り上がる。エルヴィンがしまったと後悔する頃には既に手遅れで、噛み締めた唇も虚しくnameの瞳からぽろりと一滴涙が転がり落ちたのだった。

「そうやって、女だからって、馬鹿にして、」

途切れ途切れに口を開けば堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。遂には両手で顔を覆ってしまったnameを前に、今度はエルヴィンが狼狽える番だった。
幹部の中で一番年齢が下であることや女であるが故にどうしても男(特にライバル視しているリヴァイ)に劣る身体能力、そして実戦経験。常に上を目指さんとする彼女の気掛かりを突く発言は、からかいを兼ねた挑発とプライドを傷付ける失言であるということをしばしばエルヴィンは忘れてしまう。澄まし顔の鉄面皮を崩したいが為に。
つまりは好きな子ほどいじめたいという少年じみた彼の悪い部分が、nameを前にするとつい顔を出してしまうのだ。
年下の扱いはよくわからない。歳の離れた女の扱いはミケの専売特許なのだから。恋に軽い貴族令嬢の接待ならいざ知らず、傷付けまいとすればするほど勝手がわからなくなる。年上の余裕などあったものではないな、と内心の苦笑が彼の顔に浮かんだのをnameは見逃さない。

「離して!」

「こら、暴れるんじゃない」

「うるさい!さっさと仕事しなさいよ!」

エルヴィンはじたばたと闇雲に腕を振り回すnameをどうにかしようと咄嗟に抱き締め、そして大きく息をついた。

「name、自惚れでもなんでもなく君の実力は私が一番わかっているつもりだ」

諭すような口調で話し出したのを遮って「でも」と言いかけたnameであったが、エルヴィンの両手によって頬を挟まれ黙り込む。

「だからこそ実力を一番発揮できる位置についてもらいたい。君が憲兵団ではなく調査兵団を選んだように。わかるだろう?」

「……うん」

「あとはせめて返事ぐらいはきちんとして欲しいところだが、まぁそれは大目に見よう」

冗談目かして言ったエルヴィンの腕からnameが身体をするりと抜いた。その目に涙はもう無い。

「書類、不備はないはずだから」

「助かるよ」

卓上に置かれた書類に視線を落としたエルヴィンを見ながら何かいいたそうな表情をしたnameであったが、結局なにも言わずに彼の部屋を後にした。
「おや?」束ねられた書類の一番最後に何かが留められていることにエルヴィンは気が付く。

「早く寝ること、か」

半分に折られたメモ用紙に書かれた言葉を読むと、一緒に添えてあった包みを開く。その中にはティーカップ一杯分の紅茶の葉が入っていた。無類の紅茶好きであるリヴァイにnameが頼んで分けてもらったものであったが、よもや自分の為に彼女がリヴァイに頭を下げたなどとは思いもよらないエルヴィンなのだった。
再び包みを戻すと鼻先を近付け香りを楽しむ。自然と口元が緩んでいることに気が付いて、エルヴィンは更にだらしのない顔になっていた。
明日はどうしてあの子生意気な部下をからかってやろうか。いや、その前に今晩は楽しい夜更けのティータイムが過ごせそうだ。などと、既に彼の頭の中ではnameをどうにかする算段でいっぱいなのだった。

【彼女はドアをノックしない】
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