2016

「あの、もしかして赤葦くん?」

入学してひと月ほどたった頃だった。まだ慣れない大学の校内を歩いていた俺の肩を後ろから叩いた人がいた。聞き覚えのある声に俺は少し緊張気味に振り返る。

「あ、やっぱり赤葦くんだ」

人違いじゃなくてよかったと安堵の笑みを浮かべたのは紛れもないnameさんだった。彼女とは高校のバレー部を通して知り合った仲だった。知り合ったといっても音駒高校バレー部のマネージャーをしていた彼女とは、部の合宿や合同練習で顔を合わせるぐらいであって単なる顔見知り程度だったのだけど。
密かに、好意を持っていた。けれどそれを告げられるほど自分に自信はなかったし、そもそも彼女がこれといった接点のない自分にわずかながらも興味を持っているなどとは到底思えなかった。
だから、nameさんに声を掛けられてた時、きっと俺はとても驚いた顔をしていたのだと思う。いつも顔のどこの筋肉に力を入れて表情を作っていたのか、てんでわからなくなってしまうほどに。

「お久しぶりです」

「久しぶりだね。身長ちょっと伸びた?」

「どうでしょう。もう伸び止めじゃないですか、さすがに」

「そうかなぁ。少しおっきくなったような気がするんだけどなぁ」

そう言って自分の額にあてた手のひらで俺の額とを繋ぐような仕草をする。意外と細かな部分まで覚えられていたらしいことに驚いた。

「nameさんもこの大学だったんですね」

「そうそう、ここ大きいから始めのうちは迷子になっちゃうよね」

つい、名前で呼んでしまった。というのも以前会話を交わした時に私のことは名前で呼んでいいからね、と言われたことがあり、以来彼女のことは皆苗字ではなく下の名前で呼んでいた。社交性の高い木兎さんは自分から話しかけに行くこともしょっちゅうだったけれど、特に会話の内容を見つけられない自分はこれといって立ち入って話す機会もなく、従ってnameさんの前で面と向かって彼女の名前を呼んだことがなかったのだった。
それなのに今、ごく自然に彼女の名前を口にしてしまったことに恥ずかしさと微かな後ろめたさのようなものを感じて、墓穴を掘った俺は視線を外してnameさんのつま先を見た。ピカピカとした黒い靴(多分、パンプスという奴だ)に収まった彼女の素足のつま先を想像する。
口には出さなかったけれど、これまで心の中では何度も彼女の名前を呼んでいた。名前を呼んで、そして彼女に触れる想像をしたこともあった。だから、容易くnameさん、だなんて言ってしまったんだと思う。

「迷惑じゃなかったら、携帯の番号交換しない?」

後ろめたい気持ちでいる俺に、nameさんは鞄の中から取り出した携帯電話を見せて言う。

「迷惑なんて、まさか」

迷惑なわけがない。携帯の画面に表示された彼女の名前と電話番号。よし、これでオッケー。と俺を見上げたnameさんは「今度ご飯でも行こうね」と少しだけ恥ずかしそうに(そう見えたのは勘違いかもしれないし、俺の自惚れだったのかもしれない)笑って、「これから講義あるからまたね」と手を振り去っていった。
講義の時間が近づいているせいで人の多くなってきた廊下。立ち尽くす俺はまだ信じられないような気持で、曲がり角に消えていく彼女の背中を見送った。
それからあっという間に季節は巡り、二年目の大学生活も半ば終わりを迎えようとしているところだった。nameさんとはあれから月に二、三回ほど食事をしたり買い物に付き合ったりと、大学生における仲がいい友達のような関係が続いてた。
時々、彼女がどういうつもりで自分を誘うのかと疑問を覚えることもあったけれど、真相の追求よりもこの心地いい関係を維持していくことの方が自分には大切だった。いつか聞いてみよう、そう思ってはいるものの、そのいつかはまだ今ではない。彼女に付き合っている男がいないというのが、俺の決意を先延ばしにしている一番の要因だったのは言うまでもない。心のどこかで、このまま彼女が自分だけのものになるのではないかという自惚れのような慢心もあった。

「赤葦くんももう二十歳かぁ。あっという間だねぇ」

「そんなに感慨深く言うほど年離れてないじゃないですか。というかnameさんも成人式去年でしたよね」

「そうだけどさ、高校の時からを思うとってこと」

そう言ってテーブルに片肘をついたnameさんは宙を見て、数年前を思い出すような懐かしい眼つきになる。彼女の追憶の中に自分の姿はあるだろうか。まだそう遠くない過去は鮮やかによみがえる。勿論自分の中には彼女の姿がちゃんと在る。
俺の成人のお祝いだといって、nameさんがよく行くという店に連れてきてもらった。薄暗い店内にぼんやりと光る柔らかなシャンデリアの煌めき。足元には落ち着いた色のふんわりとした絨毯が敷かれ、物静かなジャズが微かに聞こえてくる。彼女はこんな店に誰と来るのだろう。胸の裏にスッと冷たい亀裂が走ったのに気が付かないふりをして、まだ飲みなれないアルコールを一口流し込む。

「大人になったねえ」

「恥ずかしいのでやめてください」

伸びてきた手が俺の髪を撫でる。

「酔ってるんですか」

「かもしんない」

へらりと笑ったnameさんは薄く染まった頬を両手で挟むとカウンターの上に突っ伏してしまう。まだはっきりと残っている彼女の指の感触を噛み締めながら、俺はグラスを伝って落ちた水滴を指先で弄って意味を成さない文字を書ていた。しばらくして顔をあげたnameさんは「あ、」と何かを思い出したような声をあげる。

「そういえば、私ひとり暮らししようと思ってて」

「駄目です」

ひとり暮らしと聞いた瞬間に俺はの口から駄目という言葉が反射的に飛び出した。あまりの返答の速さにnameさんは一瞬キョトンとした顔をした後、そんなに面白かっただろうかと不思議に思う程よく笑った。

「ほら、もう少ししたら就職するし、そしたら家出るつもりでいるからさ。その予行演習みたいな感じで」

「就職、東京以外で考えてるんですか?」

「そういう訳じゃないよ。ただいつまでも家で甘えてるわけにもいかないかなって」

「都内なら無理してひとり暮らしすることないと思いますけど。それに単純にお金の無駄じゃないですか、家賃とか、そういうの」

「そーだけどさー」

拗ねたように唇を突き出したnameさんの不満げな顔を見て俺は憤る。どうしてわざわざひとり暮らしなんてするんだ。ただでさえ物騒なのに。そこまで考えて、自分はそんなことを彼女に言う立場にないことに気が付いて虚しくなる。きっと、就職以外に何らかの理由があるからひとり暮らしなんてことを言い出すんだろう。実は、俺に言っていないだけで、結婚を前提に付き合っている彼氏がいて、今から同棲しておいて、就職をしたらそのまま、結婚して、だとか。独り歩きする嫌な予感に、先ほど胸に走った冷たい亀裂が音をたてて広がっていく。

「赤葦くん?どしたの怖い顔して」

「……別に」

「赤葦くんはひとり暮らしなんだよね。そういえばおうち行ったことなかった」

ね、と言って再び突っ伏したnameさんはカウンターに片頬をつけたまま俺を見た。

「そうですね」

「行きたい!内覧会しよう!」

「しなくていいです」

「もしかして……」

「なんですか」

「部屋中にエッチな本が積んであるとか?」

「nameさん、もう飲むのやめた方がいいですよ」

こっちの気も知らないで。俺はため息をついてnameさんの前に置いてある何杯目かのグラスを取り上げる。オレンジ色の光に、グラスに残った彼女の唇の跡が浮かび上がっていた。

店を出たのは日付がもうそろそろ変わろうとしている頃だった。ひやりとした夜風がアルコールで熱を持った肌に心地いい。nameさんはといえば、再三止めたにもかかわらずあの後カクテルを二杯追加して、最後の一杯だからと頼んだスプモーニを半分ほど残したところで完全に駄目になっていた。足元のおぼつかないnameさんを支えながら駅までの道を歩く。偶然にも自分のアパートの近くの店だったけれど、流石にこの状態の彼女をアパートとは反対方向にある駅へひとりで向かわせることなんてできるわけもなかった。
すれ違う人々に自分たちはどんなふうに映っているのだろう。ふと視線を落とすとnameさんの足元で、再会した日にはいていたのと同じ黒のパンプスのつま先が街のネオンを受けて鈍く光を放っていた。
それにしても歩きにくい。nameさんの左腕を肩に回して歩くには些か身長差がありすぎたし、支えているというよりもはやこれは引き摺っているに近い状態だったので、これならいっそ背負ってしまった方が楽なんではないだろうかという結論に至って立ち止まる。

「nameさん、体勢キツいんで嫌じゃなければ背負ってもいいですか。というか自力で帰れなさそうなんで家まで送ります」

「ねー……赤葦くん」

「はい」

聞いているんだかいないんだか、呂律の回らない口でnameさんは言う。回された腕を外して、彼女を一度しっかり立たせるために向かい合った。

「高校の時さー、合宿とか合同練習の時、もっと赤葦くんと話せばよかったー」

nameさんは唐突に話し出す。その間にもずるずると彼女の身体は傾いていく。

「……ほら、まっすぐ立ってください」

「そしたらさー、もっともっと沢山一緒に過ごせたかもしれないのになー」

「nameさん?」

「馬鹿だなー、でもさー、あの時は声かける勇気なんてさー、なかったんだもん、あの時は」

自分でも何を言っているのかわかっていないのだろう。同じようなことを二度言ったことにも気が付かないnameさんは俺に寄りかかるようにして倒れ込む。自分の心臓が痛いほどに脈打っているのがわかった。
彼女が言わんとしている事の本質を、たぶん俺はもう。

「あの時からずっと好きだったんだよー……赤葦くーん」

街の雑踏が、波が引くようにして遠ざかった。顔を俺の胸に押し当てているせいで彼女の言葉はひどくくぐもっていて、今にも眠ってしまいそうな声だった。ずっと自分を縛り付けていた紐が解けるように、心がぶわりと身体の中で広がってゆく。幸福が全身を駆け巡るよりも早く、俺はnameさんを抱きかかえた。

「nameさん、今日は帰しませんから」

そこからどんなふうにしてアパートに帰ったか記憶は定かではなかった。玄関の扉がガチャリと閉まる音で、再び俺は思考を取り戻す。もどかしさに気が狂いそうになりながら辛うじて靴を脱ぎ捨て腕に抱えたままのnameさんの靴はそのままに、なだれ込むようにベッドへ彼女を押し倒した。

「あ、あ、赤葦くん?」

「すみません、もう我慢できない」

俺もあなたのことがあの時からずっと好きでした、とか、まさかnameさんが俺のことを好きでいてくれたなんて、だとかそんな事を口にしている余裕はどこにもなくて。だから俺はnameさんの唇を衝動のままに思い切り塞いだ。何かを言うよりも、的確に己の気持ちを伝える方法はこれしかなかったのだ。
甘く尾を引くアルコールの匂いに思考が緩む。驚いて目を見開いたまま動けずにいるnameさんに覆い被さって抱き締めた。発熱したような体温はどちらのものだろうか。どっちの熱かなんてわからなくなるほどに、境目なんて消えてしまえばいいと思った。
考えてみれば事を急ぎ過ぎたのかもせれないけれど、失われてしまった時間(というのはあまりにもロマンチックすぎる言い回しであるし、大袈裟かもしれないが)を埋め合わせるためにはこうする他はなかったし、どう考えても最善策だったはずだ。ほかならぬ証拠としてnameさんは俺を拒むことなく受け入れてくれた。
nameさんの中はあたたかく、数時間前に心の中に入った亀裂に彼女の熱が沁みこんでゆく。心臓から送り出される血流と同様に幸福が全身を巡り、末端の細胞が息を吹き返したように活力に満ちていた。
過去から現在まで頭の中で思い描いていた夢と現実がようやく交錯したこの喜びを、どうにかしてnameさんにもわかってもらいたかった。nameさん、nameさん。何度も名前を呼んだところでその後の言葉が続かない。全力で走りたいのに足がもつれて転んでしまうような気持ちだった。けれどそれはnameさんも同じらしく、何かを言いかけて半端な形で開かれた唇は言葉を紡ぐことはせず、直接俺の中に流し込むようにして肌に押し当てられた。
朱くなった眦も潤んだ瞳もその全てが愛おしくて、半ば泣きそうになりながら俺はnameさんにしがみ付いた。快感が背骨を駆け昇っていった直後に体中の力が抜け落ちる。こんなに息が弾んだのはいつぶりだろう。虚ろな目でぼんやりと思っている俺の髪を、ゆるゆるとnameさんが撫でていた。

「あかあしくん……」

彼女の頬を伝っている涙の意味を知りたくて、そっと舌先に乗せてみた。恥ずかし気に身を捩る細い身体を逃がすまいと抱き締める。味わってみるものの、涙は少しだけ塩味を残して口の中に消えていった。

「nameさん」

「……はい」

表情は微睡んでいるというのに、瞳の奥に緊張の色を滲ませて彼女はぎこちなく返事をする。衝動的な行動のあとに襲ってくる冷静な感情に、今更ながら恥ずかしさがひしひしとこみ上げてきた。だから、今言わないといけない気がした。

「好きです、俺と結婚してください」

「……お付き合いを吹っ飛ばして、結婚なんだ」

あはは。笑ったnameさんの額にキスをして黙らせる。さっきのnameさんは酒の力を借りてたとはいえあそこまで自分に話してくれたのだから、俺がそれに負けるわけにはいかないのだ。だから、もういい。とことん恥ずかしいことでもなんでも言ってしまえ、やってしまえと、ほとんど自暴自棄な気持ちで口にした。そんな台詞を吐くなんて、自分が自分でなくなっていくような気がして空恐ろしかった。きっと、それは全てnameさんのせいだ。

「嫌なら断ってくれて構いませんよ」

「嫌なんて言ってないのに」

「じゃあいいってことですか」

長い長い沈黙。呼吸の音だけが部屋に響いていた。そして彼女は小さく首を縦に振って、「うん」と消え入りそうな声で言ったのだった。





「あとその段ボールでおしまいだから」

nameさんの声が物のなくなったアパートの部屋に反響する。慣れ親しんだこのアパートに別れを告げ、二人で暮らし始めることになったのだ。

「まさか本当に結婚するなんてなぁ」

「嫌ならやめますけど」

京治ひどい!本気でショックを受けた顔をnameさんがするので「嘘ですよ」と言って彼女の腕を引く。素直にすっぽりと両腕の中に収まったnameさんがなおも不安そうな瞳を向けてくるので、少しやりすぎたと反省をしてキスをする。
赤葦くんから京治に呼び方が変わり、きっと俺もその内彼女に敬語を使わなくなるだろう。後悔した数年間よりも、もっとずっと長い時間をこれから二人で生きていくのだ。そう思うと、あの数年がそれほど悪いものでもないような気がした。
もう絶対に離すことのないようにと、俺はすっかり自分に馴染んでしまったnameさんの身体を決意新たに抱き締めるのだった。

【ささやかで尊くてひたむきで美しい】
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