2016

緩やかなカーブを描くnameの肩甲骨を黒尾は美しいと思った。もう永遠に失われてしまった技工によって作り上げられたような繊細さで、白い肌に薄暗い影を落としている彼女のそれ。見慣れているはずなのに、決して見飽きることがない。
見慣れている。そう、もうずっと昔から。記憶はいつだって鮮やかで優しい。ちんけなビニールプール、夏の庭。研磨とnameと自分の三人で遊んだことを黒尾は思い出していた。フリルのついた子供用の水着を着たnameの身体は、今とはかけ離れた無邪気さしかなかったというのに。黄緑色をした透明なプラスチック製の水鉄砲で水をかければ、nameはキャッキャと楽しげに笑った。太陽に弾ける水滴も光も、草いきれすらはっきりと脳裏に映し出すことができる。

「お風呂、先はいる?」

しっとりと汗に湿った額に張り付いた前髪を指で耳にかけながら言うnameを黒尾は抱き寄せた。

「そこは一緒に入ろう、だろ」

「今更?」

怪訝そうな視線で振り返ったnameの額にキスをする。今更だからだよ。胸の中で思いながら。
それを言ってしまえば、二人の間の出来事などほぼ全てが「今更」なことである。何年経ったのだろう。自分の世界にnameがやってきてから。
記憶の始まりから既にnameはいた。恐らくnameも同様であろう。いわゆる幼馴染という関係だった。幼稚園から高校までを同じくし、大学こそ違ったものの、切っても切れない関係は今日まで絶えることなく続いていた。
周りはふたりが付き合っているものだと信じて疑わなかった。そうであったらどれだけ良かっただろう。

「どうしたの、難しい顔して」

「……」

「クロ?」

もう何万回と呼ばれてきた自分の名前に、黒尾は苦笑した。
さきほどより更に訝しむような表情を浮かべたnameは、「熱でもあるの?」と黒尾の額に手をあてた。
幼馴染、友人、恋人。全てのカテゴリーに当てはまった(いや、いっそ当てはまっていないのかもしれない)二人の関係。ただ、互いには別な恋人がいた。

「もしお前が俺と結婚したとして、それでも俺のことクロって呼ぶのか、とか考えてた」

黒尾の言葉にnameは口をつぐむ。「私ね、結婚するんだ」彼女が静かに言ったのは、それからしばらくしてからだった。

「マジかよ」

「うん、マジ」

腕の中にいるnameの体温がわずかに低くなったような気がして、黒尾は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
重大な告白を、それも結婚相手とは違う別の男のベッドの上で事も無げに言ったnameは、普段と何ら変わらない表情を浮かべている。昨日の晩ごはんの献立を話すのと同じ調子で言うnameを注意深く観察するも、取り立てて隠されている感情は見つけられなかった。

「だから今のやつ、ちょっとびっくりした」

「ツーカー、ってやつ?」

「それ、死語じゃないの」

「知らね」

nameは筋張った黒尾の二の腕に顔を埋める。生ぬるい吐息を肌に感じながら、黒尾はぼんやりとこの先のことを考えていた。
離れられるわけがない。
まず最初にそれが浮かんだ。二十数年間、肉親よりも近い距離で繋がってきたのだ。幾度となく離れる努力もしてみたが、抗い難い力によって結局気が付けば肌と肌が触れ合っていた。オカルトめいた話は信じない質の黒尾も、こればかりは前世の因縁だとか運命だとかを疑わざるを得ないのだった。
でもそれじゃああまりにも倫理に反する。
次に浮かんだのは至極真っ当な、かといって今更すぎる考えだった。たかが紙切れ一枚にいったいなんの拘束力があるというのだろう。しかし、されど紙切れ一枚なのだ。
nameの髪に鼻を埋める。嗅ぎなれた香りはシャンプーでも香水でもなく、彼女自身から発せられる甘い香りだった。

「つーか、ならこんなことしてる場合じゃねーじゃん」

「ね」

「いや…。ね、じゃなくて」

「でもクロから離れられない」

「……」

顔を上げたnameはきっぱりと言う。死刑宣告だった。
付き合えばいーだけだろソレ。高校から付き合いの続いている木兎にさりげなく相談したら、彼はあっけらかんと言い放った。確かにそうなのだが、そんなに簡単な話ではないのだ。しかしそれを上手く説明することはとできないし、例えできたとしても他人にはとうてい理解されない案件だった。

「クロもそうでしょ?」

そうだ、と頷いてはいけない。黒尾は身体を強張らせた。
もちろん黒尾も同じであった。頷かないことで事実は消すことなどできない。むしろ肯定の意味を強めるだけだというのに。
あの日の俺たちは、今の俺達を見たらなんと言うだろう。何も知らないままでいたかった。日向で温まったぬるい水の中で、ずっと笑っていたかった。

「……そうだとしても、」

柔らかなnameの身体が呼吸にあわせて上下している。今すぐに彼女を突き放して帰らせるべきだと頭ではわかっているが、彼のとった行動はやはり真逆のものだった。

「そうだとしても俺たちは、」

「もう会うべきじゃない、でしょ?」

鼻先が触れ合う。近すぎてピントのぼやけた視界の中で、nameが自虐気味な笑みを浮かべるのが見えた。
ぐずぐずと夜に溶けていく二人は、離別という文字など持ちあわせてはいないのだった。

【さよならは遠すぎて、やっぱり聞こえない】
- ナノ -