2016

音のない吐息は湿り気を帯びていた。肌に触れた熱気と硬い歯の感触にnameはシーツを握りしめる。
驚異的に底冷えする夜だった。エアコンは空気が乾くから嫌だといって黒尾は暖房をつけたがらない。くっつけばいーじゃん。にやりと唇の右端を上げてみせると、そのまま容易くnameの身体を抱き寄せる。慣れた手つきで指を這わせれば、仰け反った喉がカーテンを透かして入ってくる明かりに白く浮かび上がった。
黒尾はそれに一瞬見とれ、そして噛みついた。噛みつくという行動は彼の中に元々ある本能だった。鋭い牙はないけれど、確実に獲物を仕留めるための行為。あ、と艶めいた戸惑いの声が上がる。nameの声を合図に黒尾は小さな身体に覆い被さった。

「もっとあったかい格好してくりゃいいのに」

「エアコン、つけてよ」

「やなこった」

空気は乾燥しないし、nameとこうして肌を合わせる良い口実にもなって一石二鳥。黒尾は思う。
nameに関しては万事己の手中にあると考えているが、時たま指の隙間から取り逃がすこともしばしば。不意を突かれた上目遣いだとか、片肘をついた物憂げな表情だとか。触発されて沸き上がる欲望に抗うことはひどく難しく、公の場でさえなければ余裕なく押し倒してしまうのだった。
突然降りかかった荒々しい力に対して向けられる驚きの眼差しすら黒尾には扇情の一因であり、またnameもそれを知ってか知らずか、毎度毎度丁寧に顔を赤らめ追い詰められた小動物のような瞳で黒尾を見上げるのだ。

「name、今どんな気持ちなわけ?」

しなった背中を指先でなぞる。声にならない悲鳴が耳に心地いい。鼓膜を震わせる甘い嬌声もいいけれど、こっちの方が肌に沁みる。細く息を吐きながら黒尾はnameの手を引き腰を抱き寄せた。
一方、どんな気持ちかと問われたところで答えられる訳もないnameは力なく頭を振り、額をシーツに擦り付ける。黒尾のこうした意地の悪い質問に彼女は未だ慣れることができずにいた。
“満たされている”と思うのだけれど、如何せんそのひと言で済ませてしまうにはあまりにも複雑な感情なのだ。精神的にも肉体的にも充足している。
聞き返されているわけでもないが黒尾は自分の気持ちを明文化してみる。欲しいものは全て今目の前にある。
つまり言葉なんてもはや必要ではない、ということだった。
雨あられと口付けを降らせ、溺れそうになるnameを引き上げ抱き起こす。蕩けた瞳に映る己の顔は、理性を手にした獣であった。

「や、」

「またソレかよー」

「だって……」

「ちゃんと言うまで動かない、って言ったら?」

柔らかな耳朶を食みながら囁く。下に組み敷かれたnameの頬を撫でた黒尾の指はそのまま彼女の顎にかけられる。少しだけ力を入れて上を向かせれば、恥ずかしいのか唯一自由な視線だけが逃げていった。

「nameチャーン」

視線すら思うままにしたい。
自分はこんなにも欲深かっただろうか。ふと思って黒尾は可笑しくなる。逸れた視線を捕まえたついでに唇を奪う。今にも泣き出しそうな顔になっているnameを見てしまえば、頭を撫でて「悪い悪い」と言わざるを得ない。結局、甘やかしてしまう。意地悪を仕掛けるくせに最後まで遂行できた試しがなかった。今日こそ、と心に決めるものの中々うまくはいかないのだ。
それだけクロがnameちゃんのこと好きってことじゃないの?と研磨に言われた時はさすがの彼も赤面する他はなかった。自覚するのと他人に指摘されるのでは、恥ずかしさのレベルが全く異なるらしい。
ゆっくりと動き出せばnameは柔らかく黒尾を包み込む。深い部分で繋がり合うと、互いの境目が消えていくような錯覚すら覚える。脳髄の中枢がほろりと融解し、腰に回されたnameのふくらはぎの熱を感じながら黒尾は喉の奥で小さく唸り声をあげた。

すべてが終わり、浴室で全てを洗い流した二人は再びベッドの中で身を寄せ合っていた。同じ香りをまとっているだけでこうも幸福な気持ちになれるのかと、毎度黒尾は驚きにも似た喜びに満たされる。

「やべー」

くしゃりと、まだ湿り気の残る前髪を掻きながら言った黒尾を不思議そうにnameが見上げる。

「なにが?」

「お前のこと離したくねーなぁと思って」

真っ直ぐに目を見つめながら言う黒尾に、nameは半ば呆れたような視線を送る。

「鉄朗って、アレだよね」

「アレってなんだよ」

「わりと恥ずかしい人だよね」

「……否定できない」

でもまぁイイじゃん。黒尾は笑いながら言うとnameの耳に顔を近づける。

「好きっしょ、そーいうの」

彼の含みを持った言い方にnameは身を捩った。

「まぁ、好きかも」

「よしよし」

乱雑にnameの髪を撫でると、首筋に唇がかすかに触れた。控えめな口付けを愛おしいと思う。部屋の寒さなど気にならないほどあたたかなベッドの中で、静かに夜はふけてゆく。

【いとしさで世界が傾ぎそうなほど】
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