2016

「なにしてるんですか、こんなところで」

第三体育館の外の暗がりでnameさんがしゃがみ込んでいた。背中を見れば、もう彼女だとわかってしまう。小さくて、でもそのどこかに俺の目を確実に惹きつける何かが潜んでいる。
近づいて隣に屈む俺に、nameさんは「ん、」と言って何かを差し出す。

「カブトムシ……じゃないですか。なんでまたそんなものを」

「壁にはりついてた」

不可解な足の動きを繰り返す硬い身体の甲虫は、蛍光灯の光をその背中にぼんやりと反射させていた。マネージャーたちはもうとっくの昔にきり上げて食堂に行っているか部屋に戻っている筈なのに。こんな場所にいるのは何故なのか。なにか仕事を頼まれたからなのだろうか。そもそもカブトムシを触ることについてこの人は抵抗を感じないのか。等々nameさんに聞きたいことは沢山あったけれど、そのうちの一つだけを取り上げて訊ねることにする。

「部屋、行かなくていいんですか?」

「この合宿くるマネさんたちってさ、みんな可愛いから居場所ないっていうか、居づらいというか」

「……」

咄嗟に何と返せばいいかわからずに黙ってしまった俺に向かってnameさんは肩を竦めると「いる?」と手にしたカブトムシを俺に渡そうとするのだった。その生き物はキュルキュルと不気味な音をたてながら足をばたつかせている。いりませんよ。俺は言って彼女のつま先に視線を落とした。
梟谷グループのマネージャーたちは世間一般的に見れば確かに可愛い。けれどだからといって彼女が卑屈になる必要なんてどこにもないし、そもそも俺に言わせれば(言わせるまでもないけれど)nameさんだって十分に可愛いんじゃないかと思う。それを伝えたところできっとnameさんは訳が分からないという顔で俺を見るに違いない。
現に黒尾さんの熱い説得の末マネージャーに就任した彼女は部員たちに猫可愛がりされているらしいではないか。風の噂に聞いたとき、微かに胸の奥が苦しくなった。ほんの一瞬、自分のまわりから空気が消えてしまったかのような息苦しさだった。学校が違うというどうしようもない隔たりは、自分たちの年齢ではあまりにも越えがたい障壁だった。
こうして部活の合宿や合同練習で頻繁に会う機会があるだけでも幸運なのだ。隣のコート脇で黒尾さんに笑顔を向けているnameさんを見るたびに、何度となく自分にそう言い聞かせてきた。
適切な距離を保って適切な関係でいるということ。それが最も無難で一番の安全策なのは誰もが知っている。例に漏れず自分もそうだった。

「冷えませんか」

夏とはいえど、緑にかこまれたこの場所は夜になると案外気温が下がる。足元の土からは湿った夜の気配が立ち上っていた。

「そういわれると、ちょっと寒いかもね」

「戻りましょうか、そろそろ」

本当はもう少しここにいたいのだけど。彼女が食堂にも部屋にもいないと知れたら、あの過保護集団が黙ってはいないだろう。ここは厄介なことになる前に引き上げなければ。
立ち上がろうとした俺の手を、ふとnameさんが掴む。ひんやりと冷たい指先が熱を持った自分の肌に心地いい。その仕草に、見えなかった一線を彼女の方から越えてきたような錯覚に陥りそうになる。単純に、触れられただけなのに。
努めて平静を装いながら「どうしたんですか」と聞いた側から「赤葦くんはさ、」とnameさんの声がかぶってきた。

「はい」

「……なんでもない」

「なんでもないって顔には見えませんけど」

俺の手を掴んだもう片方の手にカブトムシを持ちこちらを見上げてくるnameさんはまるで小さな子供のようだった。

「やっぱさ、赤葦くんも可愛い子がいいよね」

「なんの話ですか」

「私だってもし男なら可愛い子が隣にいてくれる方が嬉しいもんなぁ」

「……可愛いとか可愛くないじゃなくて、好きな人が隣にいてくれるのが嬉しいと思うんですがけど」

単純に、思っていたことを言ってみた。するとnameさんのはまじまじと、まるで見ず知らずの人間を見るような目で俺を眺めたあと「赤葦くん、いいこと言うね」と、ひとり重々しく頷いた。
あなたのことですよ。俺が隣にいてほしい人っていうのは。可愛くて、そして俺の好きな人。

「じゃあnameさんの隣にいてほしい人はどんな人なんですか」

普段通りの話し方だったと思う。多分。
色恋の話なんてそういえば今までしたことがなかった。彼女の好みを聞くのが怖くて、なんとなく無意識のうちに避けていたのかもしれない。もしもその枠から自分が外れていたら。考えるだけでも気が滅入る。知らなければ、その分猶予があるような気がして。

「赤葦くん」

「はい」

「いやいや、だから赤葦くん」

「……え、あの」

名前を呼ばれただけではなかったらしい。思いがけないnameさんの返答にたじろぐ。この人はどういうつもりで言っているのか。調子にのって俺もnameさんが隣にいてくれたら、だなんて言ってしまおうか。いや、実は彼女は「そういうつもり」で言っていたわけではないかもしれないのに?
コンマ一秒の間にフル回転する思考。

「はぁー、赤葦くんがいつも隣にいてくれたら幸せなのになぁー」

「俺もですよ」

「おぉ、嬉しい」

あまりにもnameさんの喜びかたがシンプルで、やはり自分と彼女の間に齟齬が生じているらしいと俺は悟る。
やれやれ、と溜め息をついた俺のとなりでnameさんが立ち上がった。

「よかった。私さ、赤葦くんのこと好きだったから」

え、と顔をあげようとした瞬間に、頭頂部になにかが乗せられた。

「カブトムシさ、木兎くんに渡しといて」

信じられないことに、nameさんは笑顔で俺に手を降るとその場から走り去っていってしまったのだ。立ち上がるタイミングを失い追いかけることすらできずに、頭の上にカブトムシを乗せたという非常に間抜けな絵面をさらしたまま、俺は小さくなっていく彼女の背中を見送った。
じわじわと夏の虫が鳴いている声がぼんやりと聞こえてくる。

「……なんだ」

安全策なんて必要なかった。もっと早く踏み出せばよかったのかもしれないと、引っ込み思案なnameさんに先を越された気がして、今更ながらに悔しさが顔を出すのだった。

【きみのまわりだけ違う星】
- ナノ -