2016

「最近、楽しそうね」nameは小さく笑いながら言った。
北側の僕の部屋は昼間でも薄暗い。本丸の一番はずれにあるこの場所はいつだって静かだ。
昼間でも暗いので、nameの肌は淡く白く光っている。真夜中、月の周りにかかる雲のような。薄ぼんやりとした、それでも目を細めたくなる明るさ。
彼女の肩の丸い輪郭に、噛み痕が紅く浮いていた。
「好きよ、宗三」細雨の降る庭に立ち籠める、やわらかく濡れたnameの声を思い出す。思い出すにはまだ鮮明すぎる、つい先程のことなのだけれど。
急に寒くなったため、昨日急いで冬布団を出した。季節の変わり目に体調を崩すのは、人の身になって厄介な事のひとつだった。
そして今日、まだ干したてだった布団を包む太陽の名残りをさっそく台無しにしてしまった僕達は、昼下がりの気怠い時間を、怠惰極まりない格好でふたり過ごしている。

「楽しそう?僕がですか」

「なんて言えばいいのかしら、生き生きしてるもの」

羽織っただけの着物。くすりと肩を持ちあげれば、容易く乳房が露わになった。あるじ命のあの男に知れたらどうなるだろうか。自分だけが知っているnameの姿は己の内だけで愛でていたい。
けれど。僕は思う。僕の髪を指先で梳いたり、くるくると巻きつけたり、時には鼻を埋めたりするnameを愛しいとこの自分が思い、そして隣でこうしている現状をあの男に知らしめてやりたいという気持ちが己の中に少なからずあるという事実。
魔王をはじめとした嫌悪すべきこれまでの主たちが自分にしたこと。今僕の中にある気持ちは、もしかしたら彼らがいだいていたものと同じなのかもしれない。
だとしたら、この腕を、この身体を使って貴女を籠の鳥にしてあげましょうか。
いや、馬鹿げている。nameは人の子なのだ。

「小夜だけでなく、兄様もいますから。楽しいですよ、それなりに」

「よかった」

小夜に江雪兄様、そして昔馴染みの見知った顔。忌々しい記憶を溶かすように、目まぐるしく騒がしい日常があたたかく指先で綻ぶ。

「私ね、この部屋が好き。静かで、ひんやりしていて」

「そうですか。それならこの部屋を選んだ甲斐がありました」

ふふ。抱きつかれ、胸元で笑い声がくぐもった。
この部屋が好きならば、夏が過ぎ秋が来て、冬になれば用済みなのだろうか。寒い冬、nameは太陽の光に満ちた他の誰かの(嗚呼、あの男の部屋は南側じゃないか)部屋で、こんな風に体温を分かち合うのだろうか。
侍らされるのが己の宿命と、わきまえてはいるものの。本当に、人の身は不便極まりない。実態のない心が、こんなにも酷く痛むのだから。

「ここで、宗三とこうするのが好き」

喉元に押し当てられる熱。「綺麗な瞳も、細い髪も、長い指も……」慈しむような手付きで(慈しむ、というのはあくまでも僕の主観にすぎない。もしかしたら単に、何かに触れる彼女の手はいつもこのように優しいのかもしれない。例えば、小夜の頭を撫でる時みたいに)身体に触れる。
自分に降る言葉を、本来ならば僕がnameに言うべきなのだ。わかってはいるけれど、宿った言霊が見えない縄で密かに彼女を縛り付けることが恐ろしかった。

「でもここだけは、」

「……っ」

やめてください。口にしたかったのに、不意打ちに怯んで言葉が出なかった。
刻み込まれた魔王の刻印に、nameが手の平を当てている。

「ここだけは私のものにならないのね」

「それは……残念、ですね」

「嫉妬するわ」

音を立てて肌を吸われたかと思えば、鋭い痛みが胸元に走った。唇が離れ、見ればそこには赤い血が滲んでいた。

「ごめんなさい」

眉を下げ、困ったようにnameは謝る。

「あなたをものとしてなんか見ていないのに。それなのに、自分のものにしたい、なんて」

腕の中から出て行こうとするnameを引き止める。もっと聞きたいと思った。主に所有されることへの喜びを、素直に受け止めるにはまだ言葉も理由も不十分だから。

「僕は何故、貴女の手許に置かれるのでしょう」

「……」

ややあって彼女は「秘密」と拗ねたような表情をした。何故。重ねて訊ねれば、nameはそっと両手で僕の頬を包み込む。まるで刀身をなぞるように。

「いつか教えてあげる」

「わかりました」

ただ在るだけと、長い間すべてを諦めてきた。己の在り方ではなく、存在のみに価値を見出され横たわっていたこれまで。
仕方ないと諦観する反面、浴びた血糊を拭き取られ粉をはたかれる刀達へ向ける眼差しに、消し去りきれない羨望の色を感じ取るたびやるせない気持ちになる自分が嫌だった。

「今日は一日ここにいる」

深く息を吸って吐くnameの体温が僅かに上昇する。おおかた眠たくなったのだろう。丸みを帯びた身体は、同じ人の身だというのに自分とはおおよそ似ても似つかぬもので。いつまでも腕の中に閉じ込めておきたいと、叶わぬ願いを抱いてしまう。
重なった肌と肌が溶け、布団の中でひとつになる錯覚。

「仕事が溜まっていると聞いていますが」

「酷いこと言わないで」

nameは傷ついた振りをする。僕は彼女を甘やかす。

「では、お好きに」

愛の真似事なのか、それとも真実の愛なのか。刀剣として、人の身を持つ物として、自分を正しく扱ってくれるnameを主人として慕っているのか。考えるほどわからなくなる。
指を絡ませあいながら僕は思考を放棄した。まどろみの縁から落ちる瞬間、「好き」と微笑むnameを見た気がしたけれど、心地良い浮遊感に彼女の輪郭は鮮明さを失っていた。

【ふたりだけの傷がほしい】
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