あっあのあのあの赤アスくん。顔を真っ赤にして廊下の影から飛び出してきたnameさんは、何故か俺の苗字をしっかりはっきり誤魔化しようのない程に噛んだ。ポカンとしている俺の胸元に小さな手提げを叩きつけると、こちらの事などお構いなしに踵を返して走り去る。
毎度嵐のように現れては去っていく彼女は、これでも一応俺の彼女だったりする。付き合って半年程になるのだけれど相変わらず苗字で呼ばれているし、肉体関係もないどころかろくに手を繋いだことすらない。
いや、それって付き合ってるっていうのか?と友人を始めバレー部の先輩達も口を揃えて不思議がる。実を言えば自分自身もやや不思議に思っている。
確かにルックスは可愛い。小さい、とか、ふわふわ、とか。そういうまさに愛らしさ、という言葉がnameさんには似合っている。
巣の中で様子を窺っている小動物をあの手この手で誘き出す映像をいつぞやテレビで見た時、それが自分の姿と一瞬ダブって俺はつい吹き出してしまった。
ちょこまかと俺のまわりを走り回って、大事に寄せ集めた愛を押し付けてはこちらを不安そうに見上げる。ハの字になった眉をどうにかしてやりたくて、たまに抱きしめてみるものの、結果もっと大変なことになってしまうのだ。
渡された紙袋の中にはクッキーが入っていた。ハートの形をした、薄いクッキーだった。別になにか特別な日ではないのだけれど、たまにnameさんは俺の為に手作りのものを持ってきてくれる。
小学生の時から仲がいいらしい木兎さんの手にも大概同じものが握られているのには釈然としないが、まぁあの木兎さんなのだから仕方がない。
俺は案外束縛したがりで嫉妬心の深い人間なんだと、nameさんと付き合って初めて自覚した。
テスト週間で部活がない為、いつもの階段ではなく下駄箱に向かう階段を降りる。どうせならnameさんと一緒に帰りたかった。そんなことを考えながら一階に降りれば昇降口のガラス戸にもたれ掛かったnameさんの後ろ姿が目に入る。
急いで靴を履き替えて忍び足で近付く。そして彼女の腕を掴めば案の定まるで漫画のようにその場で飛び上がった。
「俺のこと、待っててくれたんですか?」
「ち、違う」
少し腰をかがめて目を見れば、面白いほどに視線をそらされる。
「違うんですか」
「ちちち違う、違わない、ッ」
千切れんばかりに首を振るnameさんは首筋まで真っ赤にしている。何もしていないのにこちらが悪いことをしているように思わせるのが、この人の長所であり短所だ。もう少し意地悪をしてみたらどうなるんだろうと、思わざるを得ない。
「どっちなんですか?違うなら俺ひとりで帰りますから」
nameさんの腕を掴んでいた手をパッと離し、顔の高さまで上げる。そのままバイバイができるように。
可哀想なぐらい困った表情をしたあと、観念したのか「赤葦くんのこと、待ってた」と小さな声でnameさんは言う。
「よく言えました」
よしよしと頭を撫でれば、先程のことを思い出したのかnameさんは唇を噛んで下を向いた。「ほら、帰りましょう」と手を引いて俺達はゆっくりと歩き出す。
「クッキー、ありがとうございました」
「うん」
「勉強の合間にいただきますね」
「うん」
「あの」
「うん?」
「木兎さんにもあげたんですか?」
「あげたよ」
「そうですか」
「うん」
「あげないでくださいって言ったらどうします」
冗談めかして言ってみる。
「こーたろー、拗ねるもん」
「俺だって拗ねますよ?」
あぁ、止まらなくなる。俺はnameさんの困った顔が好きだ。たまらなく。
「え、」と絶句したnameさんはみるみるうちに深刻な表情になる。赤葦くんて拗ねるんだ。俺を見上げた顔にはそう書いてあった。吹き出しそうになりながら「嘘ですよ」と言えば、あっという間に安堵の色が広がってゆく。
「nameさん、今日一緒に勉強しませんか?」
「い、いいけど」
「俺の家で」
「?!」
稲妻に撃たれたような驚き方をしたかと思えば、繋いでいた手を振りほどかれた。脱兎のごとく逃げ出そうとしたnameさんの腕を引いてそのまま抱きしめる。もがく小さな身体はあたたかく柔らかい。
「図書館なら、いいよっ!」
「嫌です、却下」
「なんで」
「nameさんと二人がいいからです」
耳元で囁いた。息を呑む音。ぎこちなく振り向こうとするもやはりその勇気がなかったのか、俯いたnameさんがどんな顔をしているのかこちらからはうかがい知れない。
「嫌ですか?」
「……」
しばらくの沈黙のあと、「今日の赤葦くん、意地悪」と蚊のなくような声が腕の中から聞こえてきた。
「意地悪はnameさんの方ですよ」
いつまでも気を許していないような素振りをしたり、にもかかわらず思わせぶりな態度ばかりとって。もっと知ろうと手を伸ばせばするりと逃げてすぐ巣穴に籠もってしまうのだ。到底届きっこない狭い場所へ。
そろそろ観念してくださいね。そう言おうと思ったけれど、これ以上は流石にやり過ぎかもしれないと自戒して言葉を飲み込む。
だから、せめてハートのクッキーは口移しでお願いしますねnameさん。
今まで越えられなかったハードルをいっきに越えすぎて彼女がどうにかなってしまわないか心配だった俺が本当に心配すべきは、そのあと底なしにnameさんに沈んでいく自分自身だったのだ。
【君だけ愛していれば十分しあわせ】
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