2016

あなたが調査兵団の団長さん?
含みのある笑顔をこちらに向けた彼女の名はnameという。貴族の中でも上位階級に位置する家柄に相応しい身なりをした彼女は、聞き及んでいた年齢より幾分か幼く見える。まだどこかあどけなさを残した顔だちは笑うとなおさらその色が濃くなった。きゅっとつまんだような鼻の下で艶やかな唇が弧を描くと、血色の良い頬が持ち上がる。やわらかなソファにかしこまらずに腰かけて身を乗り出した彼女を黒服に身を包んだ付き人の男がたしなめた。

「主人からの言伝は以上です。ではわたくしはこれにて失礼します」

「お父様によろしく」

扉に手を掛けた男に向かってnameはひらひらと手を振る。男は小さく一礼をして部屋を後にした。音もなく閉まった大きな扉には緻密で豪奢な細工が施してある。扉ひとつをとってこれなのだから、この屋敷まるごと一邸にはたしてどれほどの金がつぎ込まれているのか。考えるだけで無駄であろう。

「あなたも大変ね」

「いえ、これも団長の仕事の内ですので」

「仕事、ね。取り繕いもしないの?」

「事実を隠したところでいつかは露呈するというものです。だったらはじめから真実を言ってしまった方が手っ取り早い」

「ふふ、面白いのね。じゃあ私も単刀直入に言うわ。いくらほしいの?」

笑んだ口元を両手で隠しながらnameは言った。
そう、貴族へのご機嫌伺い兼兵団維持のための資金調達。平素の業務に加えて自分を含む調査兵団上層部に課されたいわば営業なのだ。いったい何が悲しくて、とは思わない。必要だからやる、それだけだった。

「お父様は忙しいみたいでね、あなたへの応対はこれから私がするようにって。女は暇だから、ですって。ねぇ、それでお父様は何をしてると思う?しょうもないわ、本当に」

「お父上にはお父上なりの考えがあるのでしょう」

「考え?!そんな脳みそがあるとは思えない」

「ご自分の親に対して随分な言いようなのですね」

「“事実”よ、エルヴィン」

ピンと立てた人差し指を顔の横で振ると、nameはソファを叩いて私を招き寄せる。こういう場合、素直に従った方が吉であるということを経験上学んでいた。彼女たちはプライドを傷つけられるのをひどく嫌うのだ。全ては自分の思い通りになると信じ切っている。

「資金は提示額を全額で構わないわ。ただ、約束は忘れないで」

「勿論です」

大仰に恭しく言った私の首にnameの腕が回される。楽しみ。と耳に触れた唇が囁いた。
私を満足させる事。
それが資金提供するにあたって彼女の提示した条件だった。彼女の父親が交渉に当たっていた際の条件を明言するのは避けようと思うが、nameの提示した条件の方が遥かに難易度が高いような気がする。しかしこちらが選べる側には立っていないのだから致し方ない。

「それで、私はいったい何をしてあなたを満足させればいいのでしょう?」

いますぐにベッドで?薄く笑いながらnameの身体を抱きしめ返せば、途端に細い腕で胸を押し返された。

「馬鹿言わないで。そんなの狡いわ。満足しちゃうに決まってるじゃない。だってあなた、上手そうなんだもの、すっごく」

すっごく、の部分に力を込めて言う彼女の表情は真剣そのもので、むしろそのはっきりとした物言いが逆にこちらを赤面させるのだった。「どうするかは自分で考えて」返答に困っている私にnameは言うと、唇を頬に軽く押し当てる。誘っているのか拒んでいるのか。今までになかった種類の女であることに間違いはない。困ったことになった。内心面倒なことになってしまったと後悔しないでもないが、なんとかしてすみやかに資金を工面しなければいけないのもまた事実なのだ。じゃあまた、と立ち上がったnameの手を取りすべやかな手の甲に口づける。一瞬驚いたように目を見開くとnameは「次に会う日が待ち遠しい」と言葉を残して去っていった。
やわらかく甘い春のような残り香に包まれながら、いったいどうしたものかと思案に暮れた私はしばらくの間ソファから動けずにいるのだった。

「というわけなのだが」

「そんなふざけた要求突きつけてくるガキなんざ、次の壁外遠征の時に馬にでも縛り付けて巨人どもへくれてやれ」

「リヴァイひっどいなぁ。でもなに、その子面白いじゃん」

「私としては一晩で落とすつもりで行ったんだがなぁ」

「で、どうするつもりなんだ?」

nameとの対面から数日後、兵団本部に戻った私の元にやってきたリヴァイ、ハンジ、ミケは事の成り行きを興味深そうに聞いていた。リヴァイとハンジからまともな回答が得られるとは思ってはいないが、ミケならばと意見を仰いでみたが腕組みをして首を傾げるのみだった。どうするつもりかと聞かれたってこちらが聞いている側なのだ。はてさてどうしたものかと決済前の書類の山を前に溜息が自然とこぼれてしまう。

「巨人の餌は駄目だけどさ、巨人を見せてあげるとかどうだろう」

「それで満足するのなんざテメェだけだ」

「だってその子、好奇心旺盛なかんじだし」

「一般人を壁外に連れていくなんて危険すぎるぞ」

「ミケはお堅いなぁ」

「囮に使えば数秒ぐらいの時間稼ぎにはなるだろうな」

「リヴァイはさぁー……」

「壁外、か」

ふと思いついた妙案。口にした言葉に三人は(初めに壁外で巨人の餌にと言い出したリヴァイですら)まさか、という表情でこちらを見た。上手くいくかどうかは半々といったところであろうか。勝算の計算などするだけ無駄だということは知っているが、いかんせん切羽詰まった財政状況なのだ。しかしそれ以上に、この状況を密かに楽しんでいる自分がいることを認めざるを得ないのだった。
様々な場所に手配をすること数週間。再び私は彼女の屋敷の前に立っていた。今回は部下もつけず、最小限の荷物だけを持って馬車ではなく自ら馬に乗ってやって来た。相変わらずの豪邸を前にすれば悩ましい溜息すら出てこない。荘厳かつ重厚な門に背を向け立っている門番に名乗ると、あらかじめ主から言付かっているのだろうか待たされることもなく中へと通された。整然と整えられた庭園にはそこかしこに色とりどりの花が咲き、中でも庭の中央辺りに位置する薔薇の垣根は群を抜いてその美しさを誇っていた。赤、白、薄桃、深紅そして鮮血のような赤。

「エルヴィン」

「お久しぶりです」

頭上からかけられた声。バルコニーにもたれ掛かったnameがひらひらと手を振っている。白い手が翻るたびに細い手首に巻かれた宝石が太陽の光を受けてきらきらときらめいていた。
通された彼女の部屋は相変わらず生活感を感じない。

「さぁ、約束はどうなったかしら」

「そのことなのですが、」

座るよう促され彼女の隣に腰かける。話し始めた私の腕に寄りかかるようにして話を聞いていたnameは、最後まで話を聞くことなく「それ、最高」と言って満面の笑みを向けたのだった。

乗り慣れた愛馬、腕の中にはnameがいた。馬に乗るのは初めてだと言っていた彼女ははじめのうちは恐る恐る、しかし慣れてしまえばこちらがひやりとするような仕草を時折見せながらはしゃいでいる。「馬車より速いのね」「景色がよく見えるわ」などと逐一振り向くnameの目はきらめいている。馬に乗る際は大抵気を張っていることが多いが今回は別だ。遠乗りに行くような気持で、凝り固まって重く背中に圧し掛かっていた疲労が束の間ふわりと風が剥いでくれたような気がした。

「ねぇ、私にも手綱を持たせて」

「流石にそれは出来ません」

「楽しませてくれるって言ったのに」

唇を尖らせたnameは風に乱れた髪を耳にかけてふてくされる。その素直さも育ちが故なのだろう。率直な感情を顔に出しても許される、むしろその奔放さは彼女の長所として周りに捉えられているに違いない。貴族の女特有の、卑下を媚びという名の薄い膜で包んだねっとりとした媚態。初めて会った際には彼女もその類の女のだろうと踏んでいたが、どうやらそれは彼女には無縁のように思われた。
これからどこへ向かうのか等の詳しい話はしていなかった。ただ、あなたをここから連れ出してあげます。前置きとして言った言葉を聞くのみでnameは二つ返事をしたのだった。家の者に詳細を告げなくてもよかったのだろうかと一抹の不安は残るものの、馬に乗せただけでこれほどまでに喜んでもらえるのならば少なくとも連れ出した甲斐はあっただろう。彼女を送り届けた時に誘拐騒ぎなどという物騒なことになっていないといいのだが……。
どれだけ駆けようとも彼女は飽きる素振りを見せず、時折視界に入る建物や人々の様子について、気になるのものが見つかるたびにこちらを振り返り私に説明をさせた。朝に彼女の屋敷を出てから既に太陽は我々の真上に差し掛かっていた。なだらかな丘に沿った細い側道を行く。そろそろ馬を休ませようと思い、丘の上に生えている一本の木へと馬の頭を向けた。

「気持ちいい」

「落ちますよ」

「落ちないわよ、馬鹿にしないで」

木の脇を流れる小川を覗き込むようにしてnameが指先を浸している。さらさらという水音が乾いた空気を揺らしていた。
水流は岩(と呼ぶにはあまりにも丸く可愛らしい)に当たるたびに分岐し、水面では水底の小石の陰影と太陽の光とが複雑に絡み合うことによってそのきらめきをより透明度の高いものに変えていた。
この季節に相応しく、淡い黄色のシンプルなドレスを着たnameは睫毛を伏せて水流を無言で見つめていた。弱く風が吹くたびに彼女の長い髪が横顔を隠した。この世界には似つかわしくない、恐ろしく平和的な絵の中に自分が立っているということが信じられず、なにか調子のいい夢を見ているかのような気持ちがした。まだ自分が、何も知らなかった頃の……。
そこまで考えて深く息をつく。緩やかな時は自分には似合わない。もうずっと、そうやって生きてきたのだ。心に空白ができると、よからぬ記憶がそこへと入り込む。
しかし、そういった己の意志など遥か彼方へと押し流してしまう勢いで、この冗談みたいに完璧な「平和的」光景が自分の視界と思考を満たしていた。宙を眺めていたであろう私を、気が付けばnameがじっと見ていた。

「ねぇ、私をどこまで連れていく気?」

「ふむ、その台詞、まるで自分が誘拐犯になったような気分です」

「明日の朝大変なことになってるわね、きっと」

悪戯っぽく片眼を瞑ったnameに私は慌てた。まさか本当に何も告げずに出てきたのでは、いや、もしかして私を陥れる為に嘘を言って屋敷を出てきたのだろうか。

「嘘よ、そんな怖い顔しないで」

「……意地が悪いですよ」

「大丈夫よ。私がいなくなったって誰も気になんてしないから」

nameはくすりと小さく笑うと中指にはめられていた指輪を外して川の中に投げ込んだ。放物線を描いた指輪は昼下がりの日の光を受けて一瞬眩しいほどに光ったかと思うと、音もなく川底へと吸い込まれていった。
にわかに太陽を雲が覆い日が陰る。先ほどまでとは打って変わって冷たい風が一陣吹いたかと思えば、あっけなく雲間は晴れ渡り、何事もなかったかのように再び太陽の光の暖かさを肌に感じる。「先を急ぎましょうか」そう言って手を差し伸べれば、無言で頷いたnameの手が差し出される。触れた指先は華奢で、その白さはまだ一度も使われたことのない陶器のようだった。

「どこまででも行くわ、あなたとなら」

「……」

「楽しませてくれるんでしょう」

「……勿論です」

そこから目的地に着くまでの間、彼女は一度も振り返ることなくただ前を見据えていた。

【ふたり手をつないで幸せなところまで歩きたい】
- ナノ -