2015

左近の部屋は本当に乱雑だった。
部屋のカーテンは黒、ベッドカバーは赤と黒の市松模様、敷いてあるラグに至っては紫と、てんで統一感を感じさせない。元はクリーム色だったのだろう壁紙は煙草のヤニで薄茶色に煤けていたし、その壁には帽子だとかダーツだとか、果てはベタベタとステッカーの貼られたVの字のギターが掛けられていた。灰皿には吸い殻が山のようになっているし、歩けば必ず麻雀の牌を踏むような、そんな混沌とした六畳一間の安アパートは本当に、なんというか彼にお似合いだった。

「あー、わり。汚くって」

「うん」

いや毎回言うのもアレかもしんないけど一応はさ、と言って持ってきたアルコールの壜の蓋を開ける。コンビニで買った氷を入れたグラスは、所々が白く曇って汚れていた。

「これ、…はい」

「おっ、サンキュ。恩に着りますっ!」

私から受け取ったプリント(それは定期考査の日程であったり、なんだったりした)を小さなローテーブルに置くと、態とらしく顔の前で両手を合わせて私に頭を下げた。
身体が細いからだろうか、それとも顔が小さいからだろうか、左近の手はとても大きく見える。骨張った長い指には、理解し難い形状をしたシルバーのリングが幾つもはめられていた。

「じゃあ私、行くから」

「えっ!もう帰んの?」

「用、済んだから」

「んな冷たい事言うなっつの。ゆっくりしてけって」

な!と笑いながら左近は私にアルコールの壜を差し出して来た。まだお昼だし、私はこういう類のお酒は飲まないし、そもそもゆっくりしたところで何もすることなんてないし。だから私は断った。けれど左近は食い下がる。面倒になって、私は左近のベッドに上がると左近に背を向け丸くなる。
枕元に、長い髪が落ちていた。私と左近は幼馴染(歳は私の方が二つ上だった)で、それ以上でも以下でもなかった。だから私は左近のベッドに女の長い髪が落ちていても気にならない。気にならないと言ったら語弊があるけれど。主に衛生面全般において。
私は三成の無機質で、清潔な部屋を思う。空気清浄機の低く唸るあの音ですら、今は恋しかった。
ごそごそと、左近がベッドに潜り込んで来た。背後から抱き竦められる。そうやってその気にさせて、女の子を何人抱いてきたのだろう。ライオンの子供のように、鼻先を私のうなじに埋めた左近は長く眠たげな息を吐く。髪の隙間を縫うようにして、アルコールの匂いが鼻をついた。
ベッドは湿っぽくて、香水と汗と消臭剤の混じり合った、饐えたようなにおいがした。息苦しくて上を向く。ぎし、と古びたスプリングが軋む音。
暇を持て余して、私は左近がスプリングを鳴らす様を想像してみるけれど、薄い背中に浮いた背骨の凹凸が脳内に浮かぶばかりであまり上手くいかなかったし、それによくよく考えてみればそれは、見慣れた三成の背中なのだった。

「サークル、まだやってるの」

「んー…、まあ、それなりに?」

質問に語尾をあげて回答した左近はやはり少し頭が悪そうだった。馬鹿ではないにしても、軽薄そうではある。というか、軽薄その物である。
何者でも無い僕らは旅の果てで自分の中に本当の自分を見つけ出すんだ、みたいな歌詞をマイクに向かって荒々しく歌う左近の姿を見たのはもう一年ほど前になるだろうか。壁に掛けられたギターには、うっすらと埃が積もっていた。

「単位、大丈夫なの」

「なんとかなるっしょ」

大学の単位とは、危機的な状況からそのように簡単になんとかできる物なのだろうか。真面目に勉学に励む私(及び三成)にとっては、未知の世界であった。
私が三成と付き合っているということを新たに知った人間はまず、え?と訝しむような表情を一瞬して、何かをほんの少し考えた後「あぁ、雰囲気、似てるよね」と疑いを僅かに残しながらも最終的に納得する。
けれど、私と左近が今でもそれなりに仲の良い幼馴染だと言ったところで信じる人はほぼ皆無なのだった。まぁ、わからなくもないけれど。仲がいい、というよりも、もはや彼は私にとって、永遠の仔犬のような存在だった。
私と三成の周りをひとりぼっちの月みたいにしてぐるぐる回る左近を、私は少し可哀想に思う。金星のように、付かず離れずの位置で彼を見守ってくれる人がいればいいのに、と。

「あー…眠ぃ…」

「そろそろちゃんとした生活したら」

そう言った私を片肘ついて覗き込んだ左近は、眉を下げて、それでも悪びれた風でもない顔をする。それが出来たらしてるって。わざとらしい溜息が添えられた。将来のこととか、ちゃんと考えているのだろうか。ミュージシャンになるんだかマカオで一儲けしてくるんだか知らないけれど、人の道さえ踏み外さなければそれでいい、そう微睡のなかで思う。
床に置いた鞄の中から機械的な音が着信を告げた。手を伸ばし鞄から携帯電話を取り出して画面に触れる。

「…うん、いま?…左近のとこ…うん、…」

電話は三成からで、今から買い物に付き合って欲しいという旨の連絡だった。幸い近くにいるらしいので、今から出れば二、三十分で着くと言おうとした時だった。ベッドが軋むのと、背後から左近が私の携帯電話を奪ったのは殆ど同時だった。
振り向いた私を、左近は困った表情を浮かべて見つめていた。携帯電話からは機械を通した三成の声が、小さく何かを言っていた。無言で差し出した手に、正しい重みの携帯電話が返される。

「ごめん、電波、変だった。うん、…また後で」

ツーツー、と通話終了を告げる嫌な音が、耳に煩かった。

「なぁ、行くなって」

ベッドから降りようとする私を、左近が引き留める。この、作ったような低い声を聞くと、すうっと胸の裏側に薄い氷が張ったような気持ちになってしまう。

「嘘だっつの。つか、俺も行っていい?」

「うん」

「っしゃ」

睫毛が触れそうな距離で左近が笑った。けれどその笑顔は玄関で鳴る乱暴なドアノブの音によってたち消える。やべ。そう言った左近は私に小声で「鍵、かけたよな?」と尋ねる。頷いたのも束の間、ドアの外からは「開けてよ!」「居るのわかってんだからね!」「左近!左近ってば!」に始まり、後は聞くに絶えない暴言と扉を蹴りつける音ばかりが響き渡る。

「出れねー…」

「三成には左近から電話して説明してね」

枕元にあった左近の携帯電話を指差せば、今度はそれがけたたましく鳴り出した。

「無理、じゃね?」

「なら、私ので、かけて」

はい、と三成の電話番号が表示された画面を突き付ける。渋々受け取った左近は携帯電話を耳に当てゴクリと固唾を飲んだ。自然と正座になっている。そうして項を垂れながら「俺っす、左近っす」と話し出したのだけれど、三成の怒鳴り声のようなものが聞こえたかと思えば、ものの数秒で電話を切って(恐らく一方的に切られたのだろう)こちらに向き直る。

「怒られた」

「……」

「私のnameを巻き込むな、だって」

「へぇ」

「だぁー!くそ!あいつ帰るまで寝る!」

やはり小声で言った左近は、枕を抱えて横になる。溢れたゴミ箱、床に置かれたスミノフの空壜、ゲームセンターでとってきた縫いぐるみ。左近の、赤と茶に染め分けられた髪。乱雑な部屋。
ねぇ、島くんとやったことあるの?私にそう聞いてきたのは、甲高いくせに、やたらとべたついた声で話す女の子だった。私は首を振る。えー、ありえなーい。思い出すだけで頭痛がするような話し方だった。じゃああなたは飼い犬とセックスをするの?尋ねたかったけれど、やめておいた。きっと、わかってもらえないから。でもそれって、石田くんに対して失礼じゃなーい?目を細めた彼女は酷く平面的で、テレビの向こう側にいる人間みたいだった。一体どこからそんな仕様もない噂話を仕入れてくるのだろう。戯れに触れ合うことは三成に対する不義なのだろうか。それについて三成から咎められたことは一度もなかったし、気にしている風には見えなかった。

「左近、」

それに関して左近の意見を聞いてみようと呼んでみたけれど、彼はもう既に寝息を立てていた。何故こんな騒々しい場所で眠れるのだろうか。夢の中でラブアンドピースでも歌っているのだろうか。携帯電話を手に取り、メール画面を開いて指を滑らせる。左近寝てる、もう少しかかりそう。送信すれば暫くの間を置いて返信があった。わかった。三成の返答は至ってシンプルな四文字だった。
まだ外の女の子は何かを喚き続けていた。私は瞬きをして騒音を締め出すと、閉じた瞼の裏で薄い三成の背中を思い出す。ぽくぽくとした、あの背骨を。私の服の裾を掴む左近の手が、時折ぴくりと揺れていた。

【金星と月くらいの距離で】
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