2015

向かい合って座っていたエルヴィンは手にしていたフォークとナイフを皿の上に静かに置くと、ナプキンで口のまわりを拭って瞬きを二回した。
私の目の前の大きな白い皿には鶏肉がまだ半分ほど残っていたけれど、グリルされたばかりのこうばしい香りと皮の張りは既に失われ、冷えて固まりかけた脂の上でそれはひどくグロテスクなものとして鎮座していた。
手を付けていない付け合わせのジャガイモと人参の乾いてしまった表面がぎこちなく灯りに照らされている様は、著しくこの場の興を削いでいた。
テーブルの真ん中に置かれたキャンドルの揺れる炎を眺めながら、給仕が早く通りかかればいいのにと視界の隅に意識を集中させる。そんな私に気が付いたエルヴィンの視線を避けるようにして、まだ使われていないデザートスプーンのきらめきを見つめる。

「お気に召さなかったかな」

「そういうわけじゃ、ないけれど」

そもそもエルヴィンだって来たくてここにいるわけではないのだから、たとえ料理が私の口に合わなかったとしても彼が気に病む必要なんて全然ないのだ。
静かにほほ笑んだ彼が右手を上げると、背後から現れた給仕が私の皿を運び去る。

「まぁ、確かに窮屈ではある」

「悪趣味、でもあると思います」

声をひそめて言った私の発言に驚いたのか、エルヴィンは一瞬目を丸くしてから小さく噴き出した。

「言うな、君も」

「こっそり齧るがさがさのベーコンの方が美味しいと思えるなんて、あんまりです」

「悪かったと思っているよ」

まだ喉の奥で笑っているエルヴィンの顔は、しかしまったく悪びれてはいなかった。
貴族の、ある意味での端くれだった私は一族の中でも相当な変わり者、いわば異端者として疎まれていた。実の親や、兄妹にすら。着飾ることが大好きな姉、何よりも金と女が好きな弟、そしてうわべだけで美しい愛をはぐくむ両親。虚像のような世界の中で出会ったエルヴィンは、私に本当の世界を見せてくれたのだった。
本当に、いいのか。何もかもを捨てて兵団に入るという私に最後の確認をした時の彼の顔を私は一生忘れないと思う。暗闇の中で、嘘みたいに晴れた空を思わせる双眼が静かに冷たく光っていた。長い長い冬がやってくる、その直前のよく冷えた夜のことだった。

「デザートは……不要みたいだな」

「うんざりです。早く部屋に戻りたい」

「君の方から誘うなんて珍しいな」

「そういうつもりで言ったわけじゃ、ないんで」

「そうか、残念だ」

まだまだ盛り上がりはこれからだとでも言わんばかりに賑わっているテーブルを他所に立ち上がった私たちの元へ、すかさずやってくるのは資金面での援助著しいとある商会の男と、懇意にしている貴族の夫妻だった。
関係以上に親しげに接してくる彼らの態度が苦手な私は、エルヴィンから一歩引いた位置で彼らの話を右から左へとやり過ごす。一通りお決まりの文句を並べ終わると、やって来た時よりほんの少し私たちを見下すような態度で背中を向けて彼らはテーブルへと戻っていった。

「name、君はもう少し愛想というものを身に付けた方がいいと思うんだが」

「そんなもの身に付けられていたら私、今ここにいないと思います」

「困った補佐官だな」

「行きましょう、息が詰まりそうです」

樫の木でできた大きな扉を開けると、透き通るように澄んだ夜の空気が人の熱気で火照った頬に心地いい。大きく深呼吸をしている私の肩をエルヴィンが抱く。灯りが遠ざかっていくにつれて冷えてゆく身体の、二人が触れ合っている部分だけがまだ温かさをとどめていた。
部屋は勿論体裁上で二人分取ってあったけれど、当然のように私たちは同じ部屋の同じベッドに横たわっていた。
月の綺麗な夜だったので、明かりの類は一切つけずにカーテンを開けたままにしておいた。宿の空気はどれだけいい部屋だとしても大概薄い埃の膜が張ったように(あるいは決定的な潔癖さによって却って)淀んでいて、その気配を追い払うように窓を細く開ければ先ほどまでいた屋敷の喧騒が遠くから聞こえてくる。
まだやってる。と溜息をついた私の腕を後ろからエルヴィンが引く。抗わずに倒れるのは、彼が必ず受け止めてくれることを知っているから。
着飾ったドレスを脱ぎ捨てて、結局何も身に付けていない裸が一番落ち着くというのは本当に皮肉なものだ。まだ湿り気を残している石鹸の香りで満ちているエルヴィンの胸に顔を埋めてそう思う。

「君も逞しくなったものだ」

「逞しくならなければ生き残れませんから」

私の太腿を撫でながら言うエルヴィンの声音には満足そうな色が混じっている。そう、逞しくならなければ、生き残れはしないのだ。自分に言い聞かせるようにして胸の内で繰り返す。ここまでやってこれたのは運が良かっただけかもしれない。けれど運も実力の内というではないか。彼は私のそんな部分も買ってくれているのだと思う、きっと。
この人の為に生きるのだと決めた日から、知らず知らずのうちに私の身体は驚くべき変化を遂げた。それは私のした選択が正解であるという答えだったのだ。
壁の外にある本当の世界を知ってから、私は彼に増々畏敬の念をいだくようになった。調査兵団団長という肩書だけではなく、なにか、彼の胸の内に秘められた静かな熱のようなもの、あるいは使命にも似た探求心をその言動の中に垣間見るたび、私の心は騒めいた。
そういった瞬間の彼の瞳からは普段の聡明そうなきらめきは消え、底の無い暗い井戸のような暗澹とした表情を浮かべるのだ。だというのに唇は謎めいた自信に満ちているかのように結ばれ、口角は微かに持ち上げられている。たった一瞬、その一瞬が私の心を引き寄せて離さない。
大きな手に体中を撫でられ、喘ぐように仰け反れば唇を塞がれた。真っ直ぐに覗き込む瞳に私は吸い込まれそうになる。

「私はいつかあなたを失う?」

「遅かれ早かれ」

「……」

「それに関しては俺も君も同じじゃないか」

「そうだけど」

「魂だけでも傍でお仕えします、とは言ってくれないんだな」

冗談めかして言うエルヴィンの背中に私は爪を立てて抗議する。

「概念的な話は嫌いです」

「じゃあ肉体的な話、ということかな」

「はぐらかさないでください」

言い終わるか終わらないかの間に甘やかな痺れが駆け抜ける。
何が正解だったのかはわからない。「悪かったと思っている」エルヴィンが正しいのかもしれない。私はいつか彼を、もしくは彼の一部をあるいは全てを失うかもしれない。その逆も然り。けれど私たちは出会ってしまったのだ。そして時は前へ前へと進んでいる。
シーツが滲んだ汗を吸って段々と冷たくなってゆく。エルヴィン。囁いた声は掠れていた。
あなたの選択は間違ってはいない。いつだって隣で胸を張って言えるように。羽をくれたあなたに捧げられるものはこの心臓たった一つしかないけれど。
name。呼ばれた名前は夜の静寂を突き抜けて、私の奥深くまで染みわたってゆく。

【ここからそこまで、心臓ふたつ】
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