2015

馬鹿、馬鹿、と繰り返すお前の方が馬鹿なんじゃないのか。そう言いたかったが自分の身体がまるで他人のものであるかのように言うことを聞かないのだった。それで仕方なく俺は息を吐く。細い息だった。油断していたわけでも読み違えたわけでもない。むしろその逆だった。ただ刀を抜く一瞬、いつもと違う首元の重さに気を取られたのだ。淡い黄色の「お守り」の、そのわずかな重みに一歩を踏み出すのが遅れてしまった。
女の泣き声は耳障りだと思う。殊更この女の泣き声は。胸の奥がうら寒くなるような、それでいて頭の内側が変に熱を持つような。なによりたちが悪いのは、この女はよく泣くのだ。誰かが怪我を負うたびに、惜しみなくその涙を流して肩を震わせる。
胸元が涙で濡れている。呼吸は湿って荒く、身体は火照っていた。茶番だろうと、始めのうちはそう思っていたのに。俺たちに取り入るためにこういう手を使っているのだと。しかしそうではなかった。彼女の純粋な涙に触れた瞬間、ガラにもなくそのように思っていた己を俺は恥じ、そして同時に戸惑った。人間という生き物は、なんなのだ。

「お守り、あって、本当に、よかっ……、」

肩のあたりで熱が渦を巻いている。縋りつくようにしがみ付くnameの濡れた声はくぐもっていて、俺の方も傷が深いせいで熱でも出ているのか、彼女の発する言葉は輪郭を失いひどく遠くの方から聞こえてくるようだった。
己の死に場所は己で決めると硬く心に決めていた。それはあの場所ではないということは確かだった。それでも、わき腹から溢れる夥しい量の血を目にした瞬間最悪の事態が胸をよぎった。何もかもが嘘だと思った。そして意識は途切れ、気が付いたらここにいた。

「おい、」

どれだけ時間が経っただろうか。まだ鼻を啜っているnameに、ようやくなんとかそう言えば、彼女はがばりと顔を上げる。

「大倶利伽羅!」

「……うるさい」

閉じていた瞼を開けた俺の目に飛び込んできたのは、それはもう、未だかつてないほどに泣き腫らしたnameの顔だった。そんな顔を向けてくれるな。そう言ったらきっとこいつはまた泣くのだろう。そっぽを向きたかったが思うように首が動かず、やむなく俺はまた目を閉じる。

「帰ってきてくれて、ありがとう」

「……」

そりゃあ大事な戦力なのだ。失うのは惜しいだろう。
……ああ、また俺はそうやって。

「大倶利伽羅、」

その先にnameが口にする言葉を俺は恐れている。呪いのように俺を縛り付ける言葉。

「どこにもいかないで」

nameの言うどこにも、とは一体どこのことを言っているのだろうか。
死に場所。

「さあな」

案の定nameは顔をくしゃくしゃにしてまたしゃくりあげる。馬鹿、馬鹿と馬鹿みたいに繰り返しながら。触れている部分がじれったいほどに熱かった。けれど不思議と離れたいとは思わない。触れていたいと、思ってしまう。離れられない。違う、そうじゃない。
離れたくない。
あまりに馬鹿馬鹿しすぎて笑ってしまいそうだった。こみあげてくる笑いをかみ殺せば、みぞおち辺りが疼くように痛んだ。子供のような体温のnameの指が鎖骨のあたりにそっと添えられる。

秋の虫が鳴いている。いつの間にか夏は終わりかけていた。微かな秋の気配を孕んだ風の匂いがした。左隣で規則正しく聞こえる寝息が首筋を掠めてこそばゆい。

「……name」

返事がないことを知っていて名前を呼んだ、はずだった。

「な、に」

掠れた声と共に黒々とした睫毛が揺れる。重なった視線に思わずたじろいで咄嗟に目を瞑れば、「伽羅ちゃんて、案外子供っぽいとこあるよね」といつだったか光忠に茶化されたのを思い出す。ち、と舌打ちをしたい気分だった。
まだ湿ったままの胸元に、nameの顎が乗せられる。
おかえり。
桜色の唇が弧を描く。ただいま。そう言えればいいのにと、俺は自分の事を少しだけ不甲斐なく思うのだった。

【この感情を手にとって】
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