どこまでも続く線路、抜けるような青空。君はアスファルトから立ち昇る蜉蝣をかき分けるようにしてあの道を僕の方に向かってまっすぐ歩いてきた。
それが僕の一番新しい夏の記憶。淡い水色のワンピースを着て、濃い紺色のカーディガンを肩に羽織っただけの君は降り注ぐ夏の太陽に照らされて今にも蒸発してしまいそうだった。所在なく建物の日陰に立っていた僕を見つけた瞬間の君の表情。きっと一生忘れないと思う。この時代に僕がいるということにとても驚いたような顔で目を丸くして、そしてゆっくりと解ける笑顔。はにかんだように俯いて髪をいじりながらこっちに向かってくる君を、僕は一秒でも早く抱きしめたくて腕を伸ばしたっけ。
「お疲れさま」
「ごめんね、遅くなって。暑くなかった?」
「多少はね」
「その辺でお茶でも飲んでいてよかったのに」
「はは、そんなの勝手がわからないよ」
「言われてみれば」
本当にごめんね、ありがとう。そう言って鞄の中から取り出したハンカチで僕の髪の生え際に滲んだ汗を拭いてくれる君、そう、nameの細い手首を掴んで引き寄せた。わ、と小さく声をあげて腕の中に納まったnameの身体はむっとする夏の空気のように熱を孕んでいて。なんだかよからぬ想像を掻き立てられてしまう気がして、つい抱き締める腕に力がこもってしまった僕の背中に、おずおずと君の腕が回された。
「……暑いね」
「ああ、そうだね」
抱き合ったまましばらく。ようやく離れた僕たちは顔を見合わせた。君はとても恥ずかしそうに俯いて笑っていたけれど、よく考えればきっと僕も同じような顔をしていたんだと思う。そうして君なしでは見ることもできなかったであろうこの未来の世界で、こうやって二人手をつなげるという馬鹿みたいな奇跡を単純に噛み締めていた僕は、本当に単純で馬鹿だったんだ。
「ねえ、光忠」
「なんだい」
同じ白い光だというのに月明かりはどうしてこうも儚いのだろう。淡くぼやける君の輪郭はもう、夜の闇と見分けがつかないほどだった。何も身に付けずに抱き合う身体の温もりに微睡みながら、薄桃の唇が紡ぐ言葉を胸の中に吸い込む。眠たいのだろうか、半分ほど閉じかけた目で僕を見る君の瞼に唇を寄せて「なんでも言って」と囁いた。
「好きって、言ってほしいの」
「なんだ、そんなこと」
「そんなことって、」
「ああ、ごめんごめん。好きだよ、とっても」
好きだ、なんてもう何度口にしたかわからないけれど、君の方からその言葉をせがむようなことはこの時が初めてだったね。そんなこと、と言った僕を少しだけ非難がましい目で見た君の顔も、とてもかわいいと思った。だからそのまま、欲望に任せて愛の中にまた身を投げた。
僕の何もかもを優しく甘く包み込んでくれる君が愛おしくて、そして狂おしくて、あの日未来で君がしてくれたように、僕は君の額に滲んだ汗に舌を這わせた。
それがどうしてこんなことになってしまったのか、きっと誰にも分らない。勿論僕にも。けれどそれは、予め仕組まれていたことだった。彼女の中で、そして僕たちの手の届かないずっと遠い場所で。
これまで出会ってきた輩とは訳が違う、あまりにも強い力を持った敵だった。そんな敵がいるという情報はまったく知らされてはいなかったため、僕たち第一部隊はほぼ壊滅といっていい状態だった。退くか退かぬか、決める間もなく相手方の大太刀が振り下ろされる。しまった、そう思い手にした刀を眼前にかざした時だった。
「……え、」
目の前に広がる光景の、あまりの現実味の無さに僕はその場に立ち尽くしていた。長谷部くんも、大倶利伽羅も、そして短刀たちも。
どこからどう現れたのか、僕の前に立ちふさがるようにしてnameが立っていた。小さな背中、僕が愛した彼女の背中。それを貫き、こちらに向けられた刀の鋒から赤黒い血が滴っていた。
「主さまっ!」
悲鳴じみた前田の声で皆我に返ったのか、各々刀を握る気配はあるものの、負った傷はあまりにも深く立ち上がることさえ困難な様子だった。
「name……」
僕の声に君が振り返るのと、その身体から刃が抜かれたのはほとんど同時だった。僕の腕が彼女に届くよりも早く、まるで布切れのように君の身体はゆっくりとその場に崩れ落ちる。
ひどくゆっくりと景色が流れていた。
「どうして、君がここに」
「そんなことは、いいの。ねぇ、光忠、」
「よくないよ、name、喋らないで、お願いだ」
「好きだよ」
すっかり血の気の引いてしまったnameの顔はそれでもなお微笑んでいた。わけがわからないまま必死に彼女の身体から溢れる血を止めようとする僕になんかお構いなしに、足元には血溜まりができていく。
「ご、めんね」
「name、nameっ!」
離れた場所でnameに刀を向けた敵が倒れる音がした。駆け寄ってくる仲間たち。
「主、主、何故」
「燭台切どの、主さまは死んでしまうのですか?いや、嫌です」
「おい、説明しろよ」
混乱の中口々に言う僕たちに、nameはただひとこと「ごめんね」と言った。それは、何に対しての謝罪だったのだろうか。
冬のように冷たい君の指が僕の頬に触れて、そして何かを言いかけようと唇が動くけれど、憎らしいほどに鮮やかな血が音を立てて溢れるだけだった。
君はなにかを知っていたのかい。僕たちの在る訳を、君がここにやって来た訳を。世界の全てを。
「name、お願いだ」
目を開けて。
いつの間にか雨が降り出していた。明日は午後から雨なんだって。昨晩そう僕の腕の中で君が言っていたのが遠い昔のようだった。
繋いだ手を解かなければ、あの夏の向こうへゆけると信じていたのは僕だけだった。あの時、君はあの場所できっと全てを彼らに告げられていたんだね。それなのに、きみの眩しいほどの笑顔といったら。
「愛してるよ、name」
口にした君の赤い血は心地よく舌に馴染んだ。あおい香りが鼻腔を抜ける。疼きにも似たもどかしさが、眼帯に隠れた右眼の眼窩で渦巻いていた。不思議と込み上げてくる笑いに、腕に抱いた君の身体が揺れていた。
君の未来は、僕が守るから。
確かにそう口にしたはずだったけれど、言葉は耳に届かない。赤く染まった視界の中で、僕にはもう冷たくなった君しか見えなかった。
ごうごうと耳の奥でなる轟音は、遥か昔か今なのか。皮膚の裏を走る焼けるような痛みは鮮烈に思考を焼き尽くす。
name、僕の最愛の人。例えこの身が灰塵に帰そうとも、僕は、君を。
【遠い日が貴方と在るように】
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