2015

泡立つ苦い液体も、淀みのような人混みも、頭蓋骨を叩かれるような踏切の音も、なにもかもが限界だった。ハイヒールに突っ込まれた脚は浮腫み、立ち込める湿気に髪はぼさぼさだというのにそんなことすらどうでもよくて、ふらふらと深夜の街を歩く。家までが遠い。歩いても歩いても距離は縮まらず、むしろ遠のいている気さえした。
不意に後ろから自分を追い抜いた車のライトが猫の死骸を照らし出す。ぼろ布のようになったそれは私に止めを刺すには十分すぎるものだった。とうの昔に越えたはずの踏切の音が、頭の中で鳴り響いていた。

「、name、」

瞼を開ければ私を覗き込んでいる石切丸の顔がすぐそこにあった。

「どうしたんだ?ひどくうなされていたよ」

「昔の、夢を見てた」

昔といっても石切丸にしてみればつい最近のことなのだろうけど。
けれど彼は親身な笑みを細めた目元に浮かべて、額にかかった髪を耳にかけてくれる。よいしょ、と呟いて隣に腰をおろすと(決してじじくさいだとか、そういうことは言わない)明後日の方向を眺めながら私の肩を抱いた。
日向にある縁側には燦々と太陽が降り注いでいてあたたかい。そうでなくとも、私よりも少しだけ体温の高い彼に包まれていると心の奥にあるひんやりとした暗がりまで日の光に照らされているような気分になるのだ。
心地よさにそっと瞼を閉じれば、魚群のような光の帯が薄い皮膚をゆるやかにあたためてくれる。そこに感じる唇の薄い感触。この時間に相応しい、適切な距離を保った触れるだけの口付けだった。
漠然とした輪郭の静けさの中、私は彼の左胸に耳を押し当てて鼓動を確かめる。どれだけ目を凝らしても見えないそれは、音というよりも、もっとずっとはっきりとした振動として私の耳の中でこだましていた。

「たまにね、君のことが心配になるんだ」

「たとえば?」

「さっきみたいにうなされているのをよく見るからさ」

「そんなにうなされてる?」

自分では気がつかなかったけれど、そうなのだろうか。問うように石切丸を見るも、彼は軽く肩を竦めるだけだった。

「そんな君を見ていると、自分の不甲斐なさが恥ずかしくなるよ。神刀だなんて名折れもいいところだ」

そう言って眉を下げた彼は耳の裏を掻いて淡く笑った。

「別に、そんな」

「あー……いや、うん。いいんだ、なんでもないよ、忘れてくれていい」

「私は、石切丸がこうして優しくしてくれるだけでいいのに」

「……それだけじゃ駄目なんだ」

「……」

強い意志を持った声にどきりとした。

「私はいったいどうしたらいいんだろうね」

彼は長く息をはきながら、私にまわした腕に力を込める。着物の奥に隠れた弾力のある彼の腕を思って私は目を閉じた。
背負わなくてもいいような、しようもない私なんかへの罪悪感を彼に課してしまったような気がして胸が痛んだ。

「どうしたら君を、」

そのあと石切丸が口にした言葉は聞き取るにはあまりにも小さくて、ため息にも似た吐息に紛れていつの間にか消えてしまった。
私はそんな彼に対してなんと声をかければいいかわからずに、柔らかく彼に馴染んだ常磐色の着物の背中を弱く握りしめた。

「安心する」

幾つかの単語が頭の中に浮かんでいたけれど、適切な語句を拾い上げてうまく文章にすることができそうにもなかったので、いちばん心を占めているひとつをそっと大切に舌に乗せてみる。それはほろほろと甘く、溶けるようにして石切丸の胸のあたりに吸い込まれていった。
事実、彼の隣、殊更こうして腕の中に抱かれていると安心感のあまり私は胸がいっぱいになってしまうのだ。もう思い出せないほど昔の、幼少の頃の淡い幸福を追体験しているような。心をざわつかせる暗がりも、震え上がるような妖も、そういった不安などなにもない、ただ、あたたかな陽だまりで目を閉じているような安心感。
あの日現の世で目にした冷たく硬い猫の毛はまだ確かに私の網膜に焼き付いているけれど、こうして彼と共にいれば大丈夫な気がした。
ゆるゆると私の髪を梳く石切丸の指は、一定のリズムを刻んで私を微睡へと誘う。庭に咲いたネムノキの紅い花がぬるい風に揺れていた。

【あなたを切り開きたい哀しみ】
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