2015

最悪の残業を終えて会社の通用口を出た私を出迎えてくれたのは意外な人物だった。

「伽羅ちゃん、どしたの」

「……遅い」

もたれたコンクリートの壁に片足をついて腕組みをしている伽羅ちゃんは私を見るなり眉を顰めた。
遅いと言われましても無能な上司に仕事を押し付けられ同僚はひとり有給中、営業は全員外回りから直帰なんていうふざけた状況の中でコーヒーをがぶがぶ飲みながら残業していたんだから仕方が無い。たとえそんな最悪な日が私の誕生日だったとしても!
行くぞ、と言って歩き出した伽羅ちゃんの背中を追ってようやく左隣に並べば、さっきまで左手に持っていたコンビニの袋はいつの間にか右手に持ち帰られていた。しめしめと思って左腕にしがみつけば「離れろ歩きにくい」と振りほどかれた。

「ちぇ、」

口を尖らせてわざと距離を取れば、無言で左手が差し出される。おっ、と思って右を見上げるけれど、伽羅ちゃんは私の方なんかこれっぽっちも見ていなくて、無理矢理前を向かされた人形みたいに真正面を見据えて歩いているのだった。
握り締めた大きな手は私をひどく安心させる。理不尽な残業も、もうどこか遠いところに行ってしまった。
濡れたみたいな夜の空気を肺いっぱいに吸い込んで吐き出せば、いくらか気持ちが軽くなった気がして自然足取りも軽やかになる。鼻歌なんか歌ってしまう私に、伽羅ちゃんは呆れたような溜息をついていた。
小さな踏切を渡ろうとすれば、赤いランプの点滅と同時に目の前でけたたましい音が鳴り出した。びくりと肩を揺らして立ち止まった私を、ちらりと彼が一瞥したような気がした。
油の切れたモーター音を微かに響かせながら、キュルキュルと踏切が下がってゆく。何と無く行き先を阻まれたような理不尽さに私は俯いてアスファルトを蹴った。夜の踏切は嫌いだ。明るい車内で疲れた顔をする人々や、折角の静けさを真っ二つにする轟音は私を不安にさせる。

「晩ごはん、なにかな」

「海老ドリア、鯛のカルパッチョ、ケーキ」

「すごっ!」

「お前が退社したら連絡をしろとしつこく言われた」

「光忠に?」

「ドリアの焼き加減がどうたら、だと」

わざとらしい程明るい声で言った私の手を少し強めに握り返してくれる伽羅ちゃんは本当に優しいと思う。もうずっとずっと一緒にいるから、私の好きなものも怖いものも彼はなんだって知っている。小さい頃から口数は少ないけれど、こうやってちゃんと「男の子の役目」をしてくれる伽羅ちゃんは光忠に負けず劣らず紳士なのだ。ぶっきら棒な態度のせいで他人には誤解されがちなのだけれど。
左右からの電車をやり過ごしてようやく上がった踏切のつやつやと光っているレールを踏まないように気を付けて渡り切る。

「楽しみだな、光忠のドリア」

光忠は私の誕生日に有休をとって朝からご馳走を作ってくれている。毎年、私だけではなく伽羅ちゃんの誕生日にも休みを取っているのだから感心してしまう。
そんな彼の作るドリアことホワイトソースは絶品で、焦げ目のついた天辺のチーズを割った中から現れる仄かにガーリックの香るターメリックライスがこれまた美味しいのだった。
想像した瞬間に鼻先を匂いが掠めた気がして、私のお腹は盛大に音を立てる。

「お腹減ったなー」

「弁当食べたんだろ」

「お昼からどれだけ時間経ってると思ってんの」

肩を竦めた伽羅ちゃんに体当たりをするけれど、全くびくともしないどころか繋いだ手を強く引かれて思わずよろめく羽目になってしまう。
幹線道路から一本入った場所にあるマンションの七階の角部屋。柔らかな灯りが点いた私たちの部屋を見上げれば、ドリアのいい匂いが漂ってくるようで、自然と笑みがこぼれるのだった。

「よっしゃ、マンションまで競争!」

「やめとけ、転ぶだけだ」

「じゃあおんぶしてって!」

「……なんでそうなる」

「だって私、今日誕生日だし」

そう言って見上げれば伽羅ちゃんは困ったような表情を浮かべているけれど、彼が背中を向けてしゃがみ込むのは時間の問題だということを私はちゃんと知っている。

【産声をあげた世界で】
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