2015

寝付けない。nameはもう何度目かも忘れた寝返りを打ってため息をつく。辺りはしんと静まり返り、時折庭の虫がざらついた声をあげていた。
眠れない原因は明白だった。昼間、光忠に迫られたのだ。迫られたといっても偶然ふたりきりになった部屋でnameが光忠に抱きしめられかけただけであり、しかもそれは未遂に終わったのだけれど。
咄嗟の出来事にnameは「だめ」と光忠を押しとどめ、予想外の反応だったのか彼は暫く立ち尽くし、そして少しだけ悲しそうに笑ったのだった。わずかな罪悪感を胸に抱きつつも、それ以外にどうしようもなかったのだ。そう言い聞かせてnameは自分の肩を抱いた。
nameは光忠に好意をいだいている。そしてそれ以上の好意を光忠が自分にいだいていることを薄々感じてはいるものの、いま以上を踏み出せずに日々を送っていた。もどかしいけれど、甘やかでときめきに満ちた世界。境界線を越えた先の景色を見てみたいと思う反面、誰も傷つくことの無い今の関係が心地いい。
だから、光忠を拒んでしまった。
nameは長く息を吐くと、布団から起き上がる。どうせ眠れないのだ。台所で水を飲むついでに、すこし夜風にでもあたってこよう。静かに障子を開けて歩き出す。よく磨かれた床板は月明かりをつやつやと跳ね返していた。どの部屋も既に灯りは消えており、誰かの起きている気配は全く感じられなかった。南に角を曲がると、彼女は寝れ縁に腰かけた大倶利伽羅の姿を見つける。柱に身体を預け、片膝を抱いている彼はなにをするでもなくぼんやりと雲の向こうで静かに光る月を眺めていた。

「伽羅ちゃん」

nameは声をかけることを躊躇しなかった。そういう性分なのだ。臆病なくせに実は人懐っこく、心を開いた相手にはすぐさま犬のように見えない尻尾を振りながら駈け寄ってしまう。勿論大倶利伽羅は声をかけられる前から気配を察知していたのだけれど、今しがた彼女に気が付いたような素振りで視線を向ける。ちょこんと隣に腰を下ろしたnameは、彼が「こんな時間にどうした」と聞くよりも早く、「眠れなくて」と言って困ったような顔で笑うのだった。

「明日がお休みでよかった」

「……」

「伽羅ちゃんも寝れないの?」

小首を傾げてこちらを見上げる主から大倶利伽羅は目を逸らす。
nameと光忠は気が付いていなかったけれど、彼は昼間の出来事を見ていたのだった。彼女に迫る光忠と、それを拒むnameの姿が彼の脳裏に鮮やかに蘇る。見るつもりなどなかった。まして見たくなどなかった。nameがいつか誰かに迫られる日が来るとは思っていたが、大倶利伽羅はそれがまさか光忠だとは思いもよらなかった。
だからこそ、対抗心のような何かが彼の中で沸き起こったに違いない。
「考え事してたら眠れなくなっちゃって」と眉を下げたnameの顔に影が落ちる。唇に触れた予想外の感触にnameは目を見開いて身体を固くした。

「あんたの優しさは他人を傷つける」

「……え、」

「誰にでも優しくなんて、できるわけがない。それはただの傲りだ」

「そんな、つもりじゃ……」

「拒めよ、あいつにしたように」

「……」

「……ほらな」

そうやって誰も拒まずにいればあんたは傷つかないだろうな。
どうして自分がこんな事を口走っているのか大倶利伽羅自身もわからなかった。気が付けば口付け、彼女を傷つけるであろう言葉が口をついていたのだった。
全てを言い終えた頃には二人の間には気まずい沈黙が流れていた。俯いているnameの髪のわけ目をぼんやりと眺めながら、大倶利伽羅は遅すぎる後悔に苛まれる。何もかもは昼間に見た光景の所為なのだ。あれさえ目にしなければ、これまで通りでいられたのだ。

「悪い、言い過ぎた」

そう謝るのが精一杯だった。そして、立ち上がった大倶利伽羅の服をnameが掴む。思いがけず引きとめられた彼は足を止めて振り向いた。

「私は、」

言いかけたnameの瞳の光の強さに大倶利伽羅はたじろぐ。

「どっちかなんて、選べない」

ゆっくりと、しかしきっぱりと言い切ったnameの唇が薄い弧を描いた。月明かりに照らし出され、顔の右半分が白々と輝いていた。
彼女の瞳の奥で底しれずきらめいた何かを見たような気がして、大倶利伽羅は自分がとんでもない過ちを犯してしまった事をはっきりと悟った。

「光忠にも伝えに行かなくちゃ」

「……おい、」

伽羅ちゃんも一緒にね。と小首を傾げたnameの笑顔が放つ鈍い光に大倶利伽羅は頷くことしかできない。このまま彼女についてゆけば後戻りなどできないことはわかっている。振り払おうと思えばその小さな手を払いのけることだってできた。
しかし彼はふらふらと、目の前のnameに導かれるようにして静かな夜更けの廊下を光忠の部屋へと向かうのだった。

【博愛主義の成れの果て】
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