2015

ぽつぽつと降り出した雨が窓の外の景色を濡らしてゆく。灰色の空の下で木々の緑がぐんと鮮やかさを増したような気がした。
もうすっかりぬるくなってしまったワイングラスに注がれた水を一口飲んで、その脚を指先でなぞる。

「そろそろ出ようか」

「うん」

雨が強くならないうちに。そう付け足した私の椅子を引く光忠。彼は正しく紳士なのだ。磨き込まれた黒の革靴が、床板をこつこつと叩く音を小気味よく聞きながらそう思う。
すぐ脇の駐車場に停めてある車に乗り込んだ瞬間に、ざあっと雨脚が強まった。

「危なかった」

「さ、どこへ行こう」

「こんなお天気だし、もうお部屋に帰らない?」

「了解」

エンジンをかけながらこちらに向かって微笑んだ光忠は、買い物はよかったかだとか本当に寄るところはないのかだとか、生真面目に確認をして私がそれらの質問に全て頷き終わるとようやくアクセルを踏むのだった。
土砂降りの雨はフロントガラスを容赦無く叩きつけている。幾筋もの雨が流れ落ち飛ばされていく様をぼんやりと眺めながら、はやく彼の部屋につけばいいと思った。
地下駐車場に車が滑り込む。キ、とコンクリートとタイヤの擦れる甲高い音を鳴らして車を停止させると、光忠はシートベルトも外さないまま素早く私にキスをした。瞼を閉じれば僅かに唇を割られたけれど、それ以上深くなることもなく彼は顔を離して車を降りる。
そうしてまた紳士的な優しさで助手席の扉を開けると、私に腕を差し出すのだった。

「これだとしばらく止みそうにないな」

「晩ご飯、なにか作るね」

「nameが?」

「そう」

「それは楽しみだな」

極めつけに光忠は料理まで上手いのだ。ずるいなと思うのと同じぐらいの強さで、何故このように出来た男が私なんかを選んだのだろうと心底疑問に思うのだった。
彼の部屋は清潔で明るい。きちんと片付けられた部屋はまるで彼そのものだ。
ハイヒールを脱いだだけの私を、光忠が背後から抱きしめる。ずっとこうしたかった。そう耳元で囁く彼の声に目眩を覚えた。サマーセーターの裾から忍び込む大きな手は、今しがたまでハンドルを握っていたせいか少し湿っていた。

「光忠、こんなとこで、ていうか、せめてシャワー……」

「いいよ、そんなの」

キッパリと言い切った光忠は私を壁に押さえつける。こちらを見下ろす彼の金色の瞳が熱っぽく揺れていた。私は良くないんだけどな、と言うまでもなく唇を塞がれる。噛み付くようなキスを繰り返しているうちに、全てが光忠の色に染まっていく気さえした。
力の抜けた私を抱き上げて彼が向かうのは間違いなく寝室だろう。ゆるぎない足取りで部屋に入り私をベッドにおろすと、光忠は片手でネクタイを弛めて私に覆いかぶさった。

「あの、カーテン、」

「閉める?」

「うん」

「残念だな」

「ばか」

「なんだっていいよ。僕は実際nameを前にすると馬鹿になるみたいだし」

「……本当に馬鹿」

恥ずかしい台詞を恥ずかしげもなく言ってのける光忠は、腕で顔を覆ってうつ伏せになった私の背中にキスをする。
こうするのはいつぶりだろう。大きなプロジェクトを任されていた彼は連日朝から夜遅くまで会社に缶詰の日々が続いていた。少しでも暇があればその度に会わないかと連絡がきたけれど、身体を休めるべきと言って譲らない私に折れてこの一ヶ月近く光忠は仕事一本の忙しい毎日を過ごしていたのだ。
触れては皮膚の窪みをなぞるように滑る彼の唇に身を震わせれば、光忠は満足そうな吐息をはいた。
昼下がりの薄暗い部屋でたっぷりと愛し合った後、手脚の甘い余韻に浸る私の傍で光忠は飽きもせず私の髪を指先でいじったり撫でたりを繰り返していた。
あまりにも正しい愛され方に、時々不安になる。すうっと、胸の奥が冷えてゆくような。やわらかな笑顔と甘い言葉に包まれたこの日々がいつか終わってしまうのではないかという恐怖。
とくにこの一ヶ月間、私はそんな脅迫めいた不安に苛まれていた。会えない時間に蓄積した不安は、かえって彼の顔を見てからの方が大きくなったような気さえする。
いつかずっと昔の夢で見た場所で、確かに私達は永遠の別れを経験していた。おぼろげな、ただの夢かもしれない。けれど、関係が終わる瞬間にピシリと鳴った硬い金属のような音は今でも私の耳殻にこびりついているのだ。
ぬるいシーツを握り締めた私の手に光忠の手が重ねられる。

「name」

返事をする代わりに光忠の鎖骨に額をすりつける。まだ少し汗ばんだ彼の肌は、時間が経って薄れた香水のほのかな香りがした。
見上げれば、額に押し当てられる唇。

「やっぱり晩ご飯は僕が作ろう」

「いいよ、疲れてるでしょ」

「……いや、そうじゃなくて」

僕の作った料理を食べるnameの笑顔が見たいんだ。耳打ちするように小声で言う光忠は珍しく恥ずかしそうだった。
そっか、としか言えない私はなんとなく気恥ずかしくなって顔を胸板にうずめる。

「できれば、これからもずっと」

「……え」

「いや、あー……違う、」

「違うの?」

「違わないよ、ただ、そうじゃなくて」

「……」

「プロポーズはもうちょっと、格好良く決めたかったかな、って……」

「ぷ、ぷろ……」

光忠は固まったままの私の身体を上にずらして目線を合わせると、困ったように眉を下げた。
幸せにしたいんだ。鼻先を触れ合わせながら彼は言う。

「もう絶対に、離さないよ」

カーテンの向こうにはまだ雨の気配があった。濡れたみたいな光忠の目は真っ直ぐに私を見ている。小さく頷いて、彼の背中に腕を回すのが私のできる精一杯なのだった。
もう初夏だというのに、記憶の片隅では桜の花弁が舞っていた。

【きみのしあわせのすべてを】
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