「小夜、おかえり」
「ああ」
「小夜、怪我してない?」
「してない」
「小夜、お腹減ってない?」
「ない」
「小夜、あのね、」
「name、悪いけど後にして」
そう言って自室に向かった小夜の背中に、nameは小さな声で「小夜、」とまた名前を呼ぶけれど、その声はもう彼には届いていないのだった。
しばらくその場に立ち尽くしていたnameは小さな拳をぎゅっと握ると何処かに向かって走り出す。ぺたぺたと幼い足音がのどかな午後の本丸に響いていた。
「宗三兄さま」
「小夜、おかえりなさい」
内番で畑当番を任じられていた宗三のもとにやってきた小夜は、いつにも増して浮かない顔をしていた。何かあったのだろうかと、笊に積んだほうれん草を小脇に抱え、小夜も来るようにと促して井戸へと向かう。
「遠征で失態でも犯したのですか」
「ちがう」
「じゃあ何があったんです、そんな顔をして」
「……」
言い淀んでしまった小夜をちらりと一瞥すると、宗三は手押しポンプの柄を何度か押して水を出す。冷たい水が錆びかけた丸口から迸り、小さな虹をつくっていた。
鮮やかなきらめきに目を凝らしている小夜は、なんと言えばいいのだろうかと口を半端に開いてはまた閉じ、かと思えば指先で地面をいじりまわしている。
盥に張った水でほうれん草の根を濯ぎ終わると、宗三は小夜に向かってポンプを押すように頼む。素直に頷いた小夜は立ち上がり、小さな身体の全体重を使ってポンプを上げ下げするのだった。
ざぶざぶと小気味いい水音を聞きながら、微小な泥まで綺麗に流し、丸洗いした笊にまたほうれん草を積み直す。暖かな日差しを受けて水滴がつやつやと弾けるように輝いていた。
「ねぇ、兄さま……」
「はい」
「宗三兄さまは、」
と、そこまで小夜が言いかけたところで濡れ縁の角からnameが現れた。二人の姿を目に止めるや否や破顔したnameは、前のめりになりながら庭に続く数段の階段から飛び降り、置いてあった草鞋をつっかけると猛烈な勢いで駆け寄ってくる。
言葉の続きと息をのみ込んだ小夜は反射的に宗三の背後に隠れてしまう。しかし隠れたところで彼の首にかかっている大きな市女笠は、どう頑張っても宗三の身体からはみ出してしまっているのだった。
そんな小夜の様子をおや、と思いつつ、なにか心当たりでもあるのか小さな微笑みを浮かべて目の前で息を弾ませているnameに「こんにちは」と挨拶をする。
「こんにちは!」
はきはきと元気の良い声で言うとnameはぺこりと頭を下げる。
「小夜!」
「……」
「小夜、隠れていては失礼ですよ」
黙りこくって兄の袈裟を掴んでいる弟を面白く思いながら、宗三は「すみませんね」とnameに謝るのだった。
nameは彼らの主である審神者の娘であった。手習いをしたり、本丸に居着いている彼らの昔語りを聞いたり、時には内番の手伝いをしたりして日々を過ごしている。人懐こく明るい性格のnameはそれぞれベクトルは違えど、たいそう彼らに可愛がられているのであった。
そんな中、ただ一人小夜だけがそんなnameとどうにも上手くいかないのだった。しかしそんなことは御構い無しに小夜、小夜と彼の周りを跳んだり跳ねたりする勢いでnameは彼を好いていた。ありもしない尻尾が見えるようだと、宗三はそれをいつも微笑ましく眺めている。
「小夜、これ!」
そう言ってnameが差し出した何かを小夜は受け取る。
「え、……これは」
「うん、父さまがね、小夜にって」
それは近侍のみが持つことを許された桜型のバッヂだった。
「宗三兄さま……ぼ、僕」
「良かったですね、小夜」
宗三を嬉しそうな顔で見上げる小夜の姿に、nameは満足げな表情を浮かべた。そしてなにやらごそごそと胸元から取り出すと、今度は控えめな態度で差し出した。
「あと、これ、わ、わたしから」
今さっきまでの元気さ何処へやら。俯き加減で言うnameを不思議に思い、小夜は彼女の手にしたものに視線を向ける。
「あの、お守り。つくったの」
「……僕に?」
返事をする代わりにこくんと頷く。形のいい頭が上下するのにつられて、子供特有のつやつやとした黒髪の毛先が揺れていた。
「ほんとうは今回の遠征で渡すつもりだったんだけど、間に合わなくて……」
ごめんね。と申し訳なさそうに付け加えたnameを小夜は真っ直ぐに見つめて、けれど、ハッとした顔をすると慌てて視線を地面に伏せる。
「なんで、僕なんかに、」
「わたし、小夜のこと好きだから。いつもだれよりも頑張ってて一生懸命で、えっと、だから心配で、怪我とか……そういう、もし、何かあったらって、わたし、心配で、だから、」
つっかえながらもひと息にそう言ったnameの必死さに、小夜のみならず宗三までもがどことなく面映ゆい気持ちになるのだった。
「小夜、お礼を」
大人の余裕か、先に我に返った宗三が小夜の肩を優しく叩く。ごく、と唾をのみ込んで、「ありがとう」と小夜は照れくさそうに礼を言った。
そんな彼のたった一言で、今の今まで泣き出しそうな顔をしていたnameは割れんばかりの笑顔を浮かべる。
よかった!そう言って一歩距離を詰めたnameから後ずさりしようとした小夜であったけれど、肩を兄に掴まれている所為でその場から動くこともできず、頬を赤く染めてそわそと視線を彷徨わせているのだった。
「なによりも心強い御守りになりそうですね」
「戦のとき、忘れないで持っていってね」
「……わかった」
「約束だよ」
そう言って差し出された細い小指。
「指切りげんまん!」
にっこりと笑ったnameの指に小夜は自分の小指を戸惑いながら絡ませる。触れ合った瞬間に熱が溶け合い、彼は今まで知らなかった類のあたたかな何かが胸の真ん中から湧き出すのを感じるのだった。
復讐の二文字で冷たく凍った彼の心がやわらかく溶けていくような、そんな春の陽射しのような。
ぶんぶんと結んだ小指を振り回し、ようやく彼女が指をほどく頃にはすっかり顔を真っ赤にした小夜が頭から煙を出しているのだった。
【何も知らない小指で誓おう】
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