2015

同衾する、ということに私はまだほんの少し抵抗があって。
何故なら初夜の際、延々続いた酒の席と緊張も合間って、私は長秀さまの腕の中で事も致さず朝まですやすやと眠りこけてしまったのだった。目を開ければ既に日は昇っており、見知らぬ天井に目をぱちぱちさせる私を覗き込んだ長秀さまは「よく眠っておったな」とだけ言うと、少しだけ肩に回した腕に力を込めた。己の失態に気が付き布団から飛び起きると、私はべそをかきながら手をつきひたすらに頭を下げた。けれど長秀さまは「気にするな」と眉を上げて、私の髪に触れただけだった。
それから暫く、私達の間にそれらしい機会が巡ってくることはなかった。読めない部分は多々あるものの、優しくおっとりとした長秀さまのお人柄は、見知らぬ土地にやってきた私を安心させるに足りるものであったし、私はそんな長秀さまを心からお慕いしていたのだった。
しかしそんな私達を周りが放っては置いてくれなかった。若人なら未だしも、いい歳の男女、それもほとんど政略結婚の形で輿入れしてきたにもかかわらず、夜を共にしないなど言語道断、父君と母君に顔向け出来ませぬ。私についてきた侍女達にそう詰め寄られ、私はようやく二度目の初夜(それは最早初夜ではありませぬ!と侍女頭に叱られた)に臨むこととなったのだった。

汚名を返上しないと、そう思うけれど一体何をどうやって返上すれば良いのか。年配の侍女達にあれやこれやと教えられたことをどうにかして記憶の引き出しから引っ張り出そうとするけれど、まるで立て付けの悪い戸のようにその引き出しは突っかかり、一向に開いてくれる気配はなかった。膝の上に添えていた手はいつの間にか拳に変わり、緊張のあまり寒気すら感じる。
向かい合ってはいるものの、長秀さまを直接見ることも出来ず、両手を通した袖口辺りや帯の結び目辺りを見たり見なかったりしている内に、蝋燭はゆっくりと短くなってゆく。こほん、襖の向こうから咳払いが聞こえたような気がして私の心臓は早鐘を打った。どうしよう、どうしよう。俯いていると鼻の奥がツンと痛んだ。
長秀さま、私が言うよりもほんの少し先に、name、と長秀さまが私の名を呼んだ。面を上げれば、膝でにじり寄ってきた長秀さまが腕を伸ばす。頬を、両の手の平で包まれた。冬の乾いた空気の所為で少しだけかさついた彼の手に、息が詰まった。こんなにも薄暗い部屋なのに、染まった頬が見抜かれているような気がしてならなかった。どうして良いかわからず身動きを取れずにいると、理由の定まらない涙が頬を伝って、長秀さまの手に触れた。呆れられた、だろうか。視線も合わせられないまま、私は恥ずかしさと気後れで後退ろうとする。
けれど私はあっさりと長秀さまに捕まった。手が頬から離れた一瞬、涙の痕がひやりと寒かった。

「何故泣く」

けれど、それは返答を求めるような物言いではなかった。だから私は長秀さまの着物の胸の辺りをぎゅっと掴む。
暫くそうして息を潜めていると、遠慮がちな手付きで薄衣越しに触れられて、自分の体温が一瞬で上がるのがわかった。片方の腕は腰に、もう片方の腕は後頭部に。何もかもが覚束ない赤子を抱くようにして長秀さまに包まれた。肩越しに、今にも消えてしまいそうな蝋燭が見えた。恥ずかしいから、早く消えてしまえばいいのに、と思う。
ぬくい。肩に頬を預けて私は瞼を閉じた。あの時もそうだった。長秀さまの体温は、私を酷く安心させるのだ。自分の熱で温まった、褥のような。はたまた、陽だまりで横になっていた猫を抱きしめたような。だから、ふうっと身体の力が抜けていってしまう。
けれど、今日はそうも言っていられない。何をどうされるのか、はっきりとした頭の中で無闇矢鱈と働く思考が私の身体を強張らせる。心の臓のざわめきが聞かれていませんように。そう祈るのは、どうやら無駄な足掻きのようだった。
ゆるりと、長秀さまの手が私の頭を撫で、髪に指が差し入れられる。緊張していた身体の力がそれで抜けたかと思えば、右手に腰を撫でられて、私はびくりと肩を震わせた。
上手く息が出来ないような気がして、肩口に寄せた頬をそっと離して顔を上げた。すぐ間近に長秀さまの顔があって、それがどうしても恥ずかしい私はやはりそっぽを向くようにして顔をうずめる。これではまるで亀ではないか。全身に力を入れている所為で、身体の節々が痛かった。こうなったらいっそ、早く、早く事が始まってしまえばいいとさえ思った。

「…こちらを、見てはくれぬのか」

「……」

相変わらずゆるりとした手付きで私を撫でながら、長秀さまはポツリと言った。その言葉が、微かに寂しげで、私は胸が苦しくなった。この方は、無理強いなどしない方だ。まだ多くの時間を共にしたわけではないけれど、それぐらいはわかる。そんな優しい夫を、私は傷付けたくなかった。だから、勇気を出して面を上げる。こんなにもきちんとお顔を見たのは初めてだった。
鼻筋を横切る傷。まだそれが、真新しかった頃の事を思うと胸が痛み、思わず傷に手を伸ばす。此処が閨であるとか、今から起こるであろうことだとか、そういうものの何もかもを忘れて、自分がほとんど泣きそうになっていることにすら、気付かなかった。僅かな凹凸。もし鋒が、もう少しでも深ければ…。ぽろり、涙が一粒転がり落ちた。
name。名を呼ばれて我に返った。慌てて手を引っ込めようとしたその時、調子を合わせたようにして蝋燭の灯りがふっと消えた。部屋が夜に包まれ、それを追いかけるようにして燃え尽きた蝋の香りが部屋を横切った。
視界に、名残を残すようにして長秀さまの顔が浮かび、そして暗闇に消えた。二人分の息遣いだけが、静かな部屋に響く。隣室で控えている者達が、どうか灯りを足しにきませんようにと、私は祈る。闇に目が慣れ、目の前の長秀さまの顔が朧げに浮かび上がった。

「よく泣くのだな」

「っ、すみま、せん」

「謝ることはない、が、…女子の涙は得手ではない」

鼻を啜った私の、額に掛かった髪を、長秀さまの手が払う。そうして眦に残っていた涙を摘まむようにして落とすと、目縁を指先で淑やかになぞった。これほど暗いというのに、迷い無く動く長秀さまに内心驚きながら、ああ、こうしてこの方が夫であって本当によかったと、心から思うのだった。だって、自分を包む彼の身体はこんなにも、私によく馴染むのだから。手付きだって、こんなにも、優しい。いつの間にか、私の身体の強張りは解けていた。
恐る恐る彼の首に腕を回す。髷からこぼれた後れ毛が、腕にあたってこそばゆい。首筋に頬を寄せると、髷から仄かに丁子の残り香が薫っていた。その香りに、先ほど消えた灯火の如く、長秀さまが消えてしまう気がして。けれどこんな時にそのような事を思うは不吉であるから、私は不安を振り払いたくて彼の背中にしがみ付く。
童をあやすように背中を撫でる長秀さまの手の厚みに、私は安堵し瞼を閉じる。抱きしめられるということは、これこの上ない幸福だった。
そうして、突然反転した視界に私はハッとして目を開けた。私を腕の中に収めたまま、側臥している長秀さま。肩に手が触れる。私を覗き込む黒い瞳が、うるりと揺れていた。

「…今宵は、眠らせぬぞ」

「…は、…い、」

柔らかに言って二度瞬きをした長秀さまに、私はぼおっとした頭で頷いた。頬から滑り降りた手に胸元を触れられる。まるで、己の手が触れているのかと思うほど遜色ない体温だった。だというのに、他人、むしろ男の指が触れる感触は私に甘やかな何かを与えてくれた。指が動くたびに、私と長秀さまの境目が消えてゆくような気がして。でもそれは、触れてくれるのが長秀さまであるからに違いない。

「な、がひで、さま…」

途切れ途切れに呼んだ名前は酷く弱々しかった。彼はそれに指先で応える。
お慕い申しております。
恥ずかしさのあまり、言葉の半分は顔をうずめた首筋の辺りでくぐもった。けれど、長秀さまはちゃんと「ああ」と言って私の身体を抱きしめてくれたのだった。苦しいほどに、痛いほどに。
夜が暗くて良かった。私は長秀さまの腕の中で乱れながら思う。頭の、ほんの片隅で。艶っぽい部屋の空気に身体を包まれて、明けない夜に、私は愛されるということを知ったのだった。

【優しいから少しこわくて】
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