2015

辺りには水仙の噎せ返るような濃く甘い香りが満ちていた。その所為か空気はとろりとしたやわらかさをもち、時折散る桜の花びらも心なしかゆっくりと宙を舞っているようだった。
三成、左近、刑部そしてnameの面々は束の間の休戦ということで花見にでも行こうかという話になったのだが、なんとなく準備をするのも面倒で、結局城の庭に植えられた唯一の桜の木を所在なく眺めているのだった。
殺風景な佐和山の城を見た半兵衛と秀吉から贈られた桜の木は、今年もいまを盛りにと淡い桃色の花を咲かせていた。桜の他にも雪柳や木蓮、レンギョウなどの植えられた一画は、竹ばかり生えている佐和山城の中庭に文字通り花を添えてくれる。あとひと月もすれば隣に設えられた藤棚で淡い紫の花房が零れんばかりに咲き乱れることであろう。
この城に似つかわしくない静けさの中、思い出したように誰かが菓子をつまむ音や茶を啜る音だけが長閑な庭に響いていた。
先の城主が植えたものだろうか、白と黄色の水仙が庭の一角で群れている。その上をひらひらと蝶が飛んでいた。「あ、蝶々」そう言ってnameは寝そべっていた濡れ縁から跳ね起きると草履をつっかけて蝶を追いかける。「子供じみたことを」と呆れ顔の三成であったけれど、視線はしっかりと彼女に注がれていた。
nameの手を掻い潜り、蝶はゆっくりと上昇しそして塀の向こうに姿を消した。
あー、と口を開けて蝶を見送ったnameはしゃがみこんで水仙を手折る。そうしてまた左近にくっつくようにして濡れ縁に寝そべると、ほどけかけた刑部の白布を指先で遊ぶのだった。

「あー……眠いっスね……」

寝返りをうった左近はnameと向かい合わせになり、彼女の手にした水仙の匂いをすんすんと嗅いだ。

「ねむーい……」

ぼんやりと桜を眺めている三成の太腿にnameが腕を伸ばす。悪戯な動きをしようとした彼女の手首は、すぐさま三成によって捕らえられた。

「たまには暇も良きことよ」

「不幸は降らないけど桜の花びらはとてつもなく降ってるねぇ」

「すげー……マジすげー……」

「秀吉さまと半兵衛さまから賜った桜なのだ。素晴らしいに決まっている」

フン、といつものように鼻を鳴らした三成の横顔を、nameはじっと見つめていた。
かつて、こうして桜を見たことがあった。まだ治り切らない傷を抉るように掘り起こされる記憶。

「家康、元気にしてるかなぁ」

彼女の発した名前に、三成の肩が強張った。「知らねっスよ、あんなやつのこと。気にしなくたっていいじゃないですか」と左近の言葉尻が強くなる。

「あの時の桜も綺麗だったなぁ」

「やれname、桜の花に感傷でも呼び起こされたか」

ヒヒ、と笑った刑部の手を取ると、nameはポツリと呟いた。

「わたし実はさ、一緒に来いって言われたんだよね。家康に」

「え、え、ちょ、それ初耳!」

がばりと身体を起こした左近と、ほぉ、と目を細めた刑部がnameを見下ろす。
三成は一瞬目を眇めてnameを見たけれど、その視線は再び桜の木に向き直る。
name自身、何故この話題を口にしてしまったのか戸惑っているようだった。全員で、乗り越えたはずの過去。苦いけれど、振り返ることができるようになったから口にしたのだろうか。
続きを聞きたがるような目で自分を見る左近に水仙を手渡すと、その花に顔を近づける。

「何故豊臣に残った」

顔を正面に向けたまま三成が問いかける。
さあっと吹いた風に桜の枝がざわざわと鳴り、雪のように花びらが散った。

「わたしはさ、豊臣が好きだったんだ。豊臣も、それとみんなも」

かつてそこには家康も含まれていた。三成同様、将来を期待されていた存在であった。
三成とnameが豊臣に加わり、刑部と出会いそして家康が去り、左近がやってきた。
あのあたたかな日々が、ずっと続いていくものだと誰もが信じて疑わなかった。一粒も手のひらから零れ落ちずに、美しい記憶として胸に抱いてゆけるのだ、と。

「家康はさ、わたしのこと好きだから、だから一緒に来て欲しいって。わたしだって家康のことすごく好きだったよ。でも、それでも……それよりも豊臣が好きだったの」

床板にぺたりと右頬をつけたままnameは言った。ひときわ強い風が吹いて、桜の花びらが彼らのいる濡れ縁にまで飛んできた。

確かあの日も、こんなふうに麗らかな陽射しの一日だった。あまりの陽気に、はじめ家康がなにか冗談を言っているのかと思った。事実、彼はいつもの微笑みを浮かべていた。

土手にはつくしがたくさん生えているはずだ。nameはふと思った。厳密にいえば太陽にあたためられた土手のあおく湿った匂いと、どこかひんやりとする土の気配を。そして、それに類似するなにか。

「……なんか、俺なおさら許せねー気がする」

左近がばたりと仰向けに大の字になる。口を尖らせた彼は「なんだかなぁ」とぼやき、刑部はなにも口にせず小さく首を傾げるだけだった。

「家康は貴様に、好いているからついて来いと、そう言ったのか」

相変わらず視線を向けないまま、三成は訊いた。
こくりとnameは頷くと、左近の手から水仙の花をひとつちぎって彼の髪にさしてやる。含み笑いをしているnameに、左近はもっと詳しく教えてくれというような視線を寄越したけれど、どうやら彼女はそれ以上続ける気は無いらしかった。

あの日、三成が私達の昔を乗り越えるべき過去であると秀吉さまに宣言した日。
nameは瞼を太陽に晒しながら記憶を辿る。
一緒に来てほしいと言った三成を彼女は拒まなかった。どこにいくのかも、何をするのかも聞かなかった。それでも手を取られ導かれるがまま、彼の後について行った。握った手はひんやりとしていた。
壁を一枚隔ててnameは三成の声に耳をそばだてていた。きっと、彼なりに主君に心中を告げることによって家康を過去とし、自分が左腕として切り開くべき未来をはっきりとその目で見たかったのではないだろうか。
戻ってきた三成の目には迷いなど微塵もなく、進む先の道だけを見据えているような気がした。

だからきっと、わたしは今こんなことを口走ってしまったんだ。nameは思った。なんでもない、ただの昔話をするみたいにして。

「家康も、桜見てるかなぁ」

「つか、あんな奴のこと気にする必要ないですって」

「ヒヒッ、左近、そう噛み付くな」

弱い犬ほどなんとやら。と双眼を細めた刑部の言葉に左近は「だぁー!」と唸り声を上げる。

「三河の桜も、きっと綺麗なのだろうな」

三成の発言に三人ははたと彼を見る。

「三成もとうとう花の良さを解するようになったか……」

からかう刑部を見ることもせず、三成は胡座をかいた足に肘をつきぼんやりと何処かを見ているのだった。
鶯が花の落ちかけた梅の枝で鳴いている。綿雲が東の端で沸いていた。

「はぁ……平和……」

「っスねー……」

指先で花の茎を遊ばせながら左近が欠伸をしたのにつられてnameも眠たそうに目をこする。

「ッ?!」

すると突然三成が肩を跳ね上げnameの方を振り返る。せわしなく瞬きをして、眉間には皺が深く刻まれていた。

「やれ、どうした三成。腹でも痛いか」

「ち、違うっ!おいname、貴様いまなんと言った?家康が貴様を?……好いて?!」

「え、今さら?」

「私はそんな話など聞いていないぞっ!そのようなこと、断じて……断じて許さないっ!」

瞳を赤く染めながら肩を怒らせた三成の咆哮に、name、左近、刑部の三人は顔を見合わせる。どうやら先ほどの話は部分的にしか三成に伝わっていなかったらしい。
春の陽気に頭がやられたか、と三人は目配せしつつ、いまにも三河に向けて走り出さんとしている三成の着物の裾を引っ張るのだった。

【ひみつは落とし穴の中】
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