2015

書物の置かれている蔵の中でnameは忙しく動き回っていた。鼻につく紙の匂いと四方にひっそりと咲く黴のひんやりとした匂いが、明かり取りのために取り付けられた小さな窓から斜めに入る一筋の光にくっきりと浮き上がっていた。
ええと、だとか、うーん、だとか一人で声を漏らしながら手にした紙と本棚とを見比べる。彼女の頭上高くまで作りつけられた棚には所狭しと本や巻物が詰め込まれてた。

「name?」

「あれ、家康どうしたの?」

「たまたま通りかかったんだ。半兵衛どののお使いか?」

家康の「たまたま通りかかった」の言葉の真意も、こっそり開け放ってあった扉が後ろ手に閉められたことにも気が付かずにnameは満面の笑みで彼に頷き返す。

「これだけ持ってきてくれって」

と言ってnameは手にしていた紙を顔の前でひらつかせた。ほー、とそれを顎に手を当てた家康が覗き込む。

「どうせ暇だからワシも手伝おう」

「えー、悪いからいいよ」

「この量を探してあっちまで運ぶんだろう?nameだけじゃ日が暮れても終わらないぞ」

「急ぎじゃないけど…そこまで言ってくれるならお言葉に甘えます!」

えへへと笑ったnameは「じゃあ家康は後ろの方からお願いね」と言って本棚に向き直る。
家康は彼女の後ろ姿を暫く眺め、作業に取り掛かるの。
ゆっくりと日が傾き、取り出した本の山が高くなってゆく。窓から差し込む光の色は濃さを増していた。

「これで終わりっ!」

高い場所にあった最後の一冊を、踏み台の上に乗ったnameが手に取り振り返ろうとした時だった。ゆるく腰の辺りに腕が回されバランスを崩したnameは、身体ごと家康の腕の中に倒れこむ。あわわと慌てていたnameであったけれど、筋肉のついた男の硬い胸板と腕を小袖の下にありありと感じて不意に口を噤んでしまう。
普段は幼子のように無邪気に振舞っているだけに、「男女」の差をはっきりと見せつけられることに弱いnameの性質を家康はもちろん知っている。知っていて、そうした。

「あああの、あの、あの家康?」

「予定より早く終わったな」

「え、ええ?ああ……う、ん、」

「だったらもう少し、ここでこうしていても許されるという訳だ」

「そうなの…かな。てか、あの、家康、腕、はなし、」

背後から抱き竦められた状態のまま直立しているname。視線が定まらずドギマギしている様を家康は笑いを噛み殺しながら全身で味わっている。そんなことは露知らず、nameは耳まで真っ赤にして俯いているのだった。
家康は彼女を抱き締めたまま腰を下ろすと本棚に背を預ける。
分厚い土壁は外の音を遮断すると共に、内側から発生する些細な音ですら吸収してしまう。物音を立てるのが憚られ、nameは身じろぎすらできずにいた。
ちりちりと舞う埃がきらめいている。時折鋭い鳥の声が彼方から聞こえてきた。
いつまでたっても家康はnameを離そうとはしなかった。同じ姿勢でいるのが辛くなったnameは家康の腕の中でしばらくもぞもぞと身体を動かしたけれど、午後の光に暖められた穏やかな静寂にやがて寝息を立て始める。
規則的に上下する小さな身体。ぴくりと瞼が震えるたびに、頬に落ちた睫毛の影もその後を追うようにして微かに揺れた。
少しだけ開いた柔らかな唇に家康は指先で触れる。一瞬躊躇うような素振りを見せたけれど、そっと、花びらに触れるような手付きで指を乗せた。
段々と日が傾き、やがて彼らの頭上にある窓は薄い紺色で満たされた。一番星が、儚げに瞬いているのすら見て取れた。

「name、」

四方から忍び寄ってくる夜の冷気からnameを守るようにして、家康は彼女の身体を抱え直す。彼の呼びかけにnameはなんの反応も示さずに、穏やかな寝息を立てている。それが返って家康を安心させた。
けれどやはり物足りないのか、つるんとした髪の先を指で遊ばせたり、何かのはずみで一瞬痙攣する口元に触れたりして飽きることもなく腕の中のnameの挙動を具に観察するのであった。
愛おしさに満ちた彼の黒目がちな瞳には、nameの姿が小さく収まっていた。
やがて、なんの前触れもなくnameが目を覚ます。開いた目はまだ眠たそうではあったけれど、明らかに動揺しているようだった。

「あれ、えっと、」

「もう少し寝ていても良かったんだぞ」

「夜…?家康……私、あれ?」

しっかり眠っていたためか状況が把握できていないnameはきょろきょろと辺りを見回す。そして自分が家康の腕の中にいることを改めて認識した彼女は初めと同じような反応を見せて家康の笑いを誘った。
逃げ出そうとするname。しかし家康は腕に力を込めてさらにきつく抱き寄せる。声を上げることすら出来ずに、nameはただじっとされるがままになっていた。
掠れるような二人の呼吸の音だけが互いの耳に聞こえている。

「なあ、name」

「ん?」

「朝までこうしていようか」

「だ、駄目だよ!」

みんなが心配するよ。と悲しそうな声で言うnameが家康は途端に不憫になった。と同時に、それを押してでも彼女を閉じ込めておきたいという渇望。触れるだけよりももっと先が欲しかった。

「それならあと少しだけ。だったらいいだろう?」

家康の胸元にぺたりと頬を寄せたnameの頭を撫でながら、微かに甘えた声で訊ねる。うーん、と暫くの間思案して、nameはこくりと頷いた。

「寒くないか?」

「うん。家康がいるからあったかい」

「そうか」

「日向で、お昼寝してるみたいにあったかいよ」

「……はは、」

よほど疲れていたのだろうか、背中をとんとんと叩いているうちに再び寝息が聞こえてくる。無防備だな、本当に。
苦笑した家康は窓の外に浮かんだ銀色の月を独り見上げるのだった。

【ぼくだけが愛してる】
- ナノ -