2015

長浜の城の物見櫓からは近江の海がよく見えた。もっともっと私が小さかった頃、あれは湖ではなく海だと思っていた。凪いだ湖面に朝日が白く反射して、それはもう鏡のように綺麗なのだ。

今日は風が強い。見上げれば青空を連なった綿雲が流れてゆく。どうどうと音が聞こえてきそうなぐらい大量の雲が目まぐるしく過ぎ去って行くためか、空の端には重い灰色に変色した冷たい雲が吹き溜まっている。
手にした握り飯をぱくつきながら空を仰げば、真昼の日差しに視界が焼けた。近江から遠く離れた此処からはあの懐かしい海は望めない。その代わり彼方には瀬戸内の海がちりちりと砕けた瑠璃のような白波を立てて輝いていた。

「なにをしている」

「三成」

「半兵衛さまがお呼びだ。私の手を煩わせるな」

「左近は?」

「先陣を切れとの命を受けていた。今頃は暴れ回っている筈だ」

「はぁ」

「なんだ」

「近江に帰りたい」

「ならば今すぐ帰れ。秀吉さまの御戦にやる気のない者など不要だ」

律儀に梯子にしがみ付いて頭だけを覗かせている三成の目は険しい。強い風が彼の髪を揺らし、額が露わになっていた。すべすべとした額にはえた産毛が太陽を浴びて金色に輝いている。私は眩しいものを見るようにして三成を眺める。膝を抱えて座っていた私は底板に手をつき前かがみになると、素早く三成の額に口付けた。
どうどうとやはり風は吹いている。私の動きなんて読めていた筈なのに、それでもまさか口付けられるとは思ってもいなかったのか三成は少しだけ目を見開いた。けれどそれも一瞬のこと。頬にさした僅かな朱も強い風に吹かれて飛んで行った。
早く来いとでも言いたげな三成の乱れた髪を指先で整えてやる。何故だかこういう時の三成は大人しい。むすっと唇を結んで伏し目がちにしている三成の梯子を握る手は骨ばっていて、こんなにも太陽に晒されているというにもかかわらず雪のように白かった。

「いつまで愚図愚図している、早く戻るぞ」

「うん」

いつも通りに前髪をおろしてやればフンと鼻を鳴らして梯子を下りてゆく三成。城にあるような土壁ではない、ただの木を組んだだけの櫓は強風にぐらぐらと揺れていた。立ち上がり大きく息を吸う。戦前の恐ろし程に澄んだ空気。かと思いきや既にそこに死臭が混じっているのはおそらく先駆けていった左近の隊が既に相手方と一線を交えているせいだろう。梯子を降りようと身を乗り出せば、下で三成が律儀にも待ってくれているではないか。急いで地上に戻れば「遅い」と一言小言をもらった。



「やっとお戻りかい?」

「遅くなりました」

「望郷の念に駆られていたところを捕えて参りました」

「近江か堺か知らないけれど、今は眼前の敵に集中してもらわないと困るよ。左近くんが大分頑張ってくれているようだから、そろそろ君たちも出て行ってくれないか。これでケリをつけてきてくれたまえ」

「はーい」

「はっ!」

のんびりと手を挙げる私の横で三成がきびきびと首を垂れた。陣幕の片隅に立てかけてあった自分の刀を腰に下げ、着物の帯をきつく締め直す。走ると案外肌蹴てしまうので、戦装束を新しいものに新調したのだ。これまでよりも裾が些か短いこの装束を三成はあまり快く思っていないらしい。剥き出しの太ももを一瞥するとムスッとした表情で何かを言いかけるがしかし、甲高い鳶の鳴き声に遮られ口を噤む。

「ゆくぞ」

「背中は任せたよ」

「背中よりもその肉々しい脚の心配をしろ」

「聞こえませーん」

鞘の先で膝の少し上を軽く叩かれて私は耳を塞ぐ真似をした。

「いい報告を期待しているよ」

「了解でーす」

「必ずや!」

半兵衛さまと秀吉さまに手を振り振りしながら走る私のずっと先を行く三成は、後からついてゆく徒歩の兵卒たちが可哀想なぐらいの速度で駆けている。折り重なる屍を越えて煙上がる戦場に身を投じれば、一際派手に暴れる影がひとつ。

「左近」

「nameさま!三成さまは?」

「先に本隊目掛けて走ってっちゃった」

「げ、追いかけた方が良くないっすかソレ」

「ここは大丈夫?」

「あとちょっとでカタつくんで。終わったら俺もそっち向かいますから、nameさまは三成さまのとこへ行ってやってください」

二人に斬りかかられながらも身を翻し刃を受け止めつつ喋る左近の、背後から忍び寄って来た敵兵を私は背後から袈裟掛けに斬りつける。派手に舞った血しぶきを浴びた左近は己の相手を二人とも蹴り倒すと顔を腕で拭いながら双剣に付いた血糊を払う。赤髪の先からは深紅の雫が滴っていた。普段の飄々とした左近の姿とは似ても似つかないこの羅刹の如き様相に、私は一瞬時を忘れて見惚れてしまう。秘められた過去が束の間、顔を出す。私の知らないかつての彼。
血肉の香りが吹き荒ぶ風に運ばれては流されてゆく。地に突き刺さった無数の旗印は悉く相手方のものであった。ばたばたと音をあげながらはためくそれらは地表の塵芥を巻き上げ空気を砂臭いものへと変えていた。
血みどろの左近が私の手を取る。「行きましょっか」と左近は言った。笑んだ顔は拭いきれなかった返り血で赤黒く汚れていた。刀を二本とも鞘に納めた左近はつま先で地面をたたきながら私の手を引く。ほらほら、と急かすように。
ああ、どうしてこうもみんな私を急かすのだろう。もう少しゆっくり時が流れてくれればいいのにと思っているのは私だけなのだろうか。戦の時にこんなことを考えていることが三成に知れたら小言どころでは済まされないだろうな。なんて思いながら私は差し出された左近の手を握る。へへ、と笑った左近の鼻の皺で、乾いた血糊にひびが入った。

先遣左近隊により壊滅した左翼と、三成がほぼほぼ一人で健闘した結果敵の右翼も時を待たずして壊滅、敗走し、本隊も二分され最早相手方の敗北は確実であった。阿修羅の如き働きで刃を奮う三成は異様な空気を身に纏いながら敵陣の奥深くまで斬り込んでいる。その背を追うようにして私と左近も敵陣を行く。残像すら鮮やかな三成の太刀筋に負けじと左近も張り切って腕を奮っていた。大将をどうにかして守ろうと目の前に立ちふさがる敵をただ切り払う。私のすべきことはそれだけで、それ以上でも以下でもなかった。無心で腕を振り下ろすたびに心が奇妙に軽くなる。
撤退の合図が戦場に鳴り響いてもなお三成は追撃の手を緩めない。首級をあげるまでとことん追いつめるつもりなのだろう。あらかた片付いた自分の持ち場を離れ三成を追う。疲れを知らないこの男にいつか訪れる報いのようなものを私はひどく恐れていた。戦場でも政務でも、兎に角三成は疲れ知らずであった。無理をしているというわけではない。実際はそうであっても、身体が疲れを感じないのだ。恐ろしいことだと思う。小食で睡眠も碌にとらないくせに、どこからこんな力が出てくるのだろうか。心配をする私を突っぱねるいつもの三成の横顔と、返り血で赤く染まった今目の前にいる三成を重ね合わせる。

「逃がすものか」

歯噛みした三成の声が聞こえた。大将を逃しては意味がない。そう言いたいのだろう。風で視界を隠す髪を耳にかけて私は頷いた。そう遠くない距離を一目散に馬で駆けてゆく大将と思しき男と、それを囲むようにして並走する二十余の供廻。此方の軍勢に追いつかれて引き摺り下ろされるのは時間の問題だ。

「私が行くから三成は先に本陣に戻って休みなよ」

「貴様なぞに任せておけるか」

「大丈夫だよ」

「許可できない」

「許可が欲しいんじゃない」

「黙れ詭弁を弄するな」

「三成、」

「貴様ととやかく言い合っている暇はない。行きたいのであればさっさと行け。決して逃すな」

ただし退く気はない。吐き捨てるようにそう言って三成が地面を蹴った。左に控えていた左近も彼に続く。野良犬を無邪気に追う二人の童が如く。
どうと鳴った風に舞い上がった砂埃が、二人の背中をかき消した。

深夜まで及んだ祝賀の催し。盛大に酒が振舞われ、普段であればしんと静まり返っているはずの刻限だというにもかかわらず大阪城は昼間にも劣らぬ賑わいをみせていた。あれだけの距離を戻ってきたというのに、皆々大層元気であったのはやはり此度の戦が豊臣の圧勝であったことも少なからず関係していた。目立った功績を挙げたものには金子や茶器などが与えられ、そうでない末端の兵卒にさえ労いの意を込めて酒と肴が振舞われた。もはや豊臣の天下は目前であると誰の目にもそう映っているに違いない。
飲めや歌えやで賑々しい広間を抜け出し人気のない裏庭へと向かう。昼間とは一転、風のない穏やかな月夜だった。くすねてきた酒瓶に口をつけ煽る。こんなはしたない真似を半兵衛さまに見られたら苦い顔で手の甲をはたかれるに違いない。
秀吉さまも半兵衛さまも上機嫌で酒を酌み交わしていた。左近も浮かれていた。三成と吉継ですら身に纏う雰囲気がいくらか和らいだものになっていたのだから相当なものだ。
黒い夜の池に映った満月を肴に私はちびちびと酒を独り飲んでいた。宴が詰まらなかったわけではない。ただ、少しだけ一人になりたかった。頬を撫でる夜風が心地いい。そっと目を閉じれば瞼を通して星空が見える気がした。おもむろに背後に気配を感じて目を開ける。

「なにをしている」

既視感のある台詞を吐いた三成を振り返る。

「月見酒」

「何故抜け出した」

「なんとなく」

「……」

怪訝な顔をして三成が私を見下ろしている。家康の出奔以来、三成はある特有の気配に関してひどく敏感になっていた。怯えにも似た色がほんの一瞬だけ瞳をよぎるのだ。それが酷く痛々しかった。

「座りなよ、三成も」

「少しだけだぞ」

「はい、」

「飲めというのか」

「勿論」

抱えていた酒瓶を三成に突き出せば明らかに嫌そうな顔をして、そして受け取った。嚥下するたび上下する喉仏が、白い肌に影を落とす様に私は息を潜めて見惚れていた。この男の危うい美しさ。ずっとずっと、思っていた事。刃の鋩のきらめきにも似た刹那的な艶麗。酒の所為でいつもより赤みの増した頬は触れてみたいと思う程にあたたかそうなのだった。
三成の肩に頭を預ける。着物越しだというのに、硬い肩の骨を感じる。昔から線の細い男だったけれど、それは今でも変わらない。変わらないけれど矢張りそれなりに大人の男の体格になった。その相変わらず細い身体は、三成の中に渦巻く感情を収めておくには些か窮屈そうでもあるのだけれど。
酔っているのか、と訊ねてきた三成に、酔った、と私は答えた。そうか、とだけ言って三成は私の肩を抱いた。酔っているのは三成の方だ。太腿に彼の手が触れる。此度の戦で傷を負った場所だった。大した怪我でもなんでもない些細な刀傷だったため、もうすでに傷は塞がり始めている。

「あのような装束、私は好かん」

「まあ、動きやすさ重視だから」

「それでも、だ」

「心配してくれてるの?」

「ああ、そうだ」

やっぱり酔っている。試しに抱き付いてみたけれど、押しのけられる気配はない。太腿に手を乗せたまま、三成はぼんやりと水面に映った月を眺めているようだった。

「私は昔から、ずっと……」

三成は言いかけて口を噤む。どこかで虫が鳴いていた。伏せられた瞼を縁どる睫毛が、つるんとした頬に影を落とした。

「あー!いたいたー!」

静寂を破るのはいつだってこの男と決まっている。大きく手を振りながらこちらにやってくる左近は両手に酒瓶を持って千鳥足だ。

「みんな探してたんスよ、どこ行ったのかなって」

あ、もしかしてお楽しみでした?俺邪魔しちゃいました?とわざとらしくにやついている左近(彼は酔っている、というか酔わされているので罪はない)から酒瓶を奪い取って大きく煽った。ひりつく喉と、焼けるような胸。束の間、時が止まったような錯覚を覚えて意識が遠のいた。

「ほらほらー、戻りましょうよ!ね?」

私も三成も左近に腕を取られて立ち上がる。ご機嫌な左近の背中を見つめながら、血花を浴びた彼を思い出す。それはそれで、美しいと思った。三成も、私も。濃く甘い青春の空気は確かに拭いきれない血の香りを孕んでいた。
左近の背後で、掠めるように三成が私に口づけた。それは桜の花びらのように淡く、儚い口付けだった。

【物語のようにはすすまない】
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