嗚呼、煩わしきこと。落ちた椿の花を見ながら思う。庭に咲いた蝋梅の薄黄色の花弁が、昨晩の雨を吸ってぺかぺかと艶めいていた。ちるちるとやって来ては去る愛らしい小鳥たちは山の向こうの春をもう知っているに違いない。
床に置いた厚手のたとう紙にさらさらと詩などを書きつけてみるけれど矢張り気乗りせず、筆を硯に掛けてついつい嘆息してしまう。
今日は軍議があるからと長秀さまは早朝から小姓たちに支度をさせて登城してしまった。板戸の隙間から漏れる彩な朝陽を共に愛でることもせず、するりと褥を抜け出した長秀さまの残り香と温もりを腕に抱いてみたけれど、物足りない気持ちが埋まるどころか益々空白が広がるばかりなのだった。
傍に積まれた巻物をひとつ手に取り広げるも、文字はもはや地を這う虫の列のようにしか目に映らず、内容はおろか文字の形容すらわからぬほどで。もうこうなってしまえば出来る事はただ一つ、寝る。それだけだった。時折風に乗り、先ほど磨った新しい墨の匂いがふわりと優しく香って眠気を誘う。ふあ、と欠伸をひとつして、あたりに人気がないのをいいことに私は暖かな床板に身を横たえた。
どれぐらいの時が経ったのだろうか。ふと目を覚ませば霞んだ視界の向こう側、濡れたように艶々とした庭苔の上にぽつぽつと蝋梅の花が落ちていた。強い風でも吹いたのだろうか。ごろごろとまろびつつ起き上がれば眠りに落ちる前までは確かにあったはずの硯やたとう紙がないではないか。侍女がやってきて片づけてしまったのだろうかと辺りを見渡していると、廊下の角から長秀さまがひょっこりと現れた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
「お早かったのですね」
「もう少しかかると思ったが……早く帰って来て正解だったようだ」
寝乱れた私の髪をちらと見ると長秀さまは私の隣に腰を下ろした。
「もしかして、長秀さまが片づけてくださったのですか?」
「風で紙が庭に散らばっておった」
「矢張り強い風が吹いたのですね」
髪を手櫛で整えれば、そこに長秀さまの手が加わった。
「暇をしておったようだな」
「とっても」
退屈で。と言ったけれど、本当は寂しくて、と言いたかった。言っても詮無きこと故口にはしないのだけれど、つい「人はいさ、」と恨み節とも取れるような句を口ずさんでしまうのだった。長秀さまはそれを咎めるでもなく、かといって気にする風でもなく春の香が仄かに香る庭を眺めている。紅梅は既に盛りを迎え、隣に植えられた白梅はその硬い蕾を僅かに綻ばせ今か今かと開花を待ち望んでいる。手持無沙汰になったのか、巻物の入った桐箱の蓋を開けたり閉めたりしている長秀さま。考え事をしているのか、はたまた何も考えてなどいないのか。
「ああ、そう言えばname」
「はい?」
「入り用なものはあるか」
「……急ですね」
「城から帰る際に得意の行商に会ったのだ。近いうちに行くから、と」
「欲しいもの……」
欲しいものと言われても特に思いつくものは無く。新しい着物が欲しいとは思うものの、何かと長秀さまが買い与えてくれるので今のところ不要であるし、侍女に下賜する為にも反物は多いに越したことは無いけれど…。うーんと考え込んでいる私を長秀さまは気長に待ってくれている。
「あ!」
「……」
「新しい書が欲しゅうございます」
「……書」
そうだ、そうだった。中途半端に屋敷にあった源氏物語の続きが気になっていたことを思い出したのだった。
「源氏物語の写本が欲しいのです」
「それならば邸の蔵に眠っておるはず」
「それが途中までしかないのです」
「……そうであったか」
「聞くところによりますと細川さまが源氏物語を写本されているとか。是非彼の方の写本を拝読したいと思っているのですが……」
よよ、と長秀さまにしな垂れかかる。ふむ、と顎に手をあてて思案顔の長秀さまはしばらくすると「ああ、」と呟いた。
「そう言えば、以前に明智殿が細川殿に借り受けておるのを見た気もする。確か……花散里、であったろうか」
「まあ、明智さまもお好きなのでしょうか」
「細川殿と古くから親交があるのであれば、そうなのかもしれぬな」
「叶うことならば、私も一度細川さまにお目にかかりとうございます」
細川さまは文武両道、古今東西の有職故実に通じるお方と女共の間でも専らの評判であった。京に住まい将軍家にお仕えしていたとあらばその教養の高さは計り知れないであろう。出来れば手元にある古今和歌集などの講釈を聞かせていただきたいものである。いったいどのようなお方なのであろうか。きっと眉目秀麗な殿方に違いないのだろう。同じ主君に仕える長秀さまが羨ましい限り。そんなことを思いながら隣の長秀さまを見れば、なにやら眉間に皺が寄っている。
「……」
「長秀さま?」
かこん、と乾いた音を立てて桐箱の蓋が閉められた。
「そなたは本当に書物が好きなのだな」
「……はい」
好き、というよりも、本当は。
長秀さまがいない間の時間を埋めてくれるものがこれしかないのだ。戦だなんだと何かしら屋敷をあけることの多い夫を待つ身として、今昔の物語は私の唯一の心の慰めであった。文字を追えば時はあっという間に経ち、寂しい気持ちも幾らか紛れる。であるから私は屋敷に収められている膨大な数の書物を飽きることなく貪り読むのだ。常にあなたが隣にいてくれさえすれば、私は書物などこれっぽっちも要らぬのですよ、長秀さま。
「今度細川殿に会った時、伝えておこう」
「有難うございます」
「……我が妻が、会いたがっておったとな」
「……」
隠しきれない言葉の棘に長秀さまを見上げれば、あえなく視線を逸らされた。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。淡白な振りをしていながら時折こうして見せる彼の執着心には、毎度面倒だと思いつつ嬉しい事と思わされてしまうのだった。共に過ごす時間が少ない所為か、隣にいる時に私が他事にかまけるのが気に入らないようで。
「怒ってます?」
「いや」
「……ふふ」
なにが可笑しい、とでも言いたいような目をして私を見る長秀さまの手を取って指を絡ませる。
「昔々の恋物語より、矢張りこうして触れるあたたかさの方がよっぽど真実味がありまする」
「……」
わかったのかわかっていないのか。二、三度眉を上下させた長秀さまは私の肩を抱き寄せる。
「いっそ、攫ってしまえばよいのか」
すっと細められた目に見つめられて私は言葉を失った。攫ってしまえば、だなんて。私は既にあなたの妻なのに、という最もな返答よりもまず、長秀さまから「攫う」だなんて荒々しい言葉が出て来たことに驚いたのだ。
「昨晩、そなたが消える夢を見た」
「……」
だったらもう少し名残惜しく褥を出る素振りをすればいいものを。そういうことをしない所が、このお方の分かりにくい所以なのだ。
「攫うだの消えるだの、まるで業平ですね」
「わしが、か?」
「正直、あまりそういう印象はありませんが」
色白でふっくらとした頬の面立ちは確かに烏帽子と袍が似合いそうではあるけれど。無言で向けられた視線が少し恨みがましそうで、とうとう堪えきれなくなった私は吹き出した。失礼な、と斜め上を見た長秀さまであったけれど、結局は「まあ、確かに、そうだな」と独り納得しているのがまた笑いを誘う。
「いいんですよ、攫ってくださっても」
眦に浮かんだ笑い涙を拭いながら言えば、不意に強く腕を引かれてされるがままに抱き寄せられる。あれよ、という間に横抱きにされた私に何か言う間も与えずに、長秀さまは奥へ奥へと歩き出す。
「では、攫ってしまおうぞ」
伏し目で此方を一瞬見た長秀さまの、刺さるような視線に不意を突かれて奪われた心。己はさしたる武闘派ではないと平素言っておきながら、このような時に遺憾無く発揮される荒々しい男の力は酷く印象的に私の胸を高鳴らせるのだ。そうして私が、露など知らぬ深窓の姫君のように口を噤んで、頼れる者などあなたしかいないのだとでもいうように首に腕を回せば、長秀さまの柔らかな唇が緩く弧を描くのだった。
【夜が垂れてく前に】
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