2015

まだうっすらと雪の残る刈田の畦道を抜けて佐吉とnameは長浜の城までの道のりを早足で行く。それぞれの小さな手に竹の水筒を握りしめ、鼻の頭を赤くして。いそげいそげ、と懸命に足を前に進める二人の辿った道には点々と足跡が続いていた。それをかき消すようにして粉雪がまた舞い始める。
何度も躓きそうになるnameに業を煮やした佐吉は彼女の手を取り少しだけ歩調を緩めて半歩先を行く。寒さに悴んでも、決して竹筒を落とさぬようにと二人は目配せし合う。大切な、大切なものが入っているのだから、と。帰り道で指切りげんまんをしたのだ。
風邪をひいてしまった半兵衛の為に買いに行った甘酒がその中には入っていた。多めに入れておいたから余ったらお前たちも飲むといい。この寒い中長浜の城から少し距離のあるここまで来たのだから一口甘酒を飲んでからお帰りと店主は言ったのだけれど、一刻も早く甘酒を半兵衛に届けたい二人はその申し出を断った。そうかい、じゃあもう一本はおまけだよ。そう言って店主は余分にもう一本竹筒を持たせてくれたのだった。気を付けてお帰りよ。店先で小指どうしを絡ませて駆け足で去っていく二つの小さな背中を年老いた店主はあたたかな気持ちで見送った。
手足の指先が真っ赤になった二人は長浜の城に着くいや否や台所に駆け込んで甘酒を温めてもらうよう台所番に頼む。鍋にあけられたそれに火が通ると、台所中にふわりと甘い香りが広がった。空っ風に吹かれてかさかさになった頬をくっつけるようにして鍋を覗き込むnameと佐吉の姿を、集まってきた侍女達が微笑ましく見守っていた。

「さあ、できましたよ」

器に注がれた甘酒を差し出され、二人は顔を見合わせる。あたたかな湯気を上げる甘酒が冷えてしまわないうちに半兵衛さまのお部屋に運ばなければ。佐吉とnameが思うことはただそれだけだった。漆塗りの丸い盆に載せていざ運ぶという段階で問題が勃発する。

「わたしが持っていく!」

「貴様では溢してしまうだろう、私が持つ。よこせ」

「やだやだわたしが持っていくんだもん!」

半泣きになるnameを前に、しかし最優先事項は温かい状態で甘酒を半兵衛の元に持ってゆくことであると判断した佐吉は渋々盆をnameに譲る。ここで言い合いをしていても不毛な結果に終わるまで。そうと決まれば急がねば。

「決して転ぶなよ」

まだほんのりと赤い鼻をふんと鳴らして言うと佐吉はnameの前を歩き出す。nameも早足で台所を後にした佐吉を追って、そろそろと草鞋をつっかけた足を地面に擦るようにして歩くのだった。恙なく半兵衛の部屋のすぐそこまで来た二人はまだ甘酒が湯気を立てていることを確認する。これで半兵衛さまの風邪もきっとよくなるね。そう言って肩を竦めるようにして笑ったnameに、佐吉の口元もついゆるむ。

「では私が先に行って半兵衛さまに帰城をお伝えしてくる」

「えっ」

「貴様は後からゆっくり来い」

言うが早いが佐吉は踵を返して今までとは比べ物にならないぐらいの(といってもそれが彼本来の歩行速度であるのだが)速さで歩き出す。最後の曲がり角を曲がろうとしている佐吉の背中にnameは「待ってよ!」と大きな声で叫ぶ。彼女だって一刻でも早く半兵衛の顔が見たいのだ。
地団太を踏みたくなるのをぐっとこらえてnameは急ぎ足で板張りの廊下を行く。手元の椀の中で甘酒が大きく波打っていた。
半兵衛さま、半兵衛さま。心の中で呼びかけながら急ぐnameは城を出る時に見た半兵衛の顔を思い出す。ただでさえ色白の肌は雪のように白く、それなのに頬だけは牡丹の花が咲いたような紅がさしていた。けほけほと時折咳き込む背中はいつもより薄く、幼い彼女の目にも儚げに映っていたのだった。
わたしと佐吉がもらってきたこの甘酒はとってもおいしくて、甘酒の名人の人がつくっているやつで、と半兵衛に説明する文句を考えているうちにどうやら彼女が思っているよりもずいぶん早い足運びとなっていたようだ。気が付けば曲がり角は目の前に来ていて、慌てて身体の向きを変えたはいいものの磨き抜かれた床板は冬場の乾燥も相まってほぼほぼ摩擦がなくなっていた。見事に足を滑らせたnameの目の前には佐吉が驚いた顔をして立っている。やはりnameを待っていてやろうと思い引き返してきたのだった。「あっ!」と声を上げたnameの握りしめた盆から綺麗な放物線を描いて飛んでいった椀を、佐吉は何とか捕捉しようと手を伸ばす。しかし何とか椀は受け止めたものの肝心の中身は重力に従って椀から飛び出し、手を伸ばしたせいでまくれ上がった小袖から覗く佐吉の腕にかかってしまったのだった。

「っ、」

あまりの熱さに流石の佐吉も顔を顰める。まだ十分に熱を持った麹の粒は佐吉の白い腕に転々と赤い痕をつけていた。顔面から廊下に倒れたnameは盆を掲げたままの恰好で突っ伏し微動だにしない。さらさらと零れ落ちた髪から覗く可愛らしい耳朶が見る見るうちに赤くなっていく。そうしてとうとうnameはわんわんと泣き出してしまうのだった。こんな廊下で泣きわめいていては迷惑になるだろうし、半兵衛の耳に届けば心痛が身体に障るかもしれない。そう思った佐吉は倒れ伏して肩を震わせているnameの背中を揺すって起こそうとするけれど、nameは一向に起き上がるそぶりを見せずにしゃくりあげながら増々大きな声をあげている。こうなったら引き摺ってでもこの場からこやつを撤去せねば。腕にかかった甘酒もそのままに佐吉は泣き喚いているnameの足首を掴むとそのまま半兵衛の部屋とは反対方向に引きずろうとする。

「name?どうしたんだい?」

しかしやはり半兵衛の耳にはしっかりと聞こえていたらしい。佐吉とnameが甘酒を分けてもらいに行くことを予め耳に入れていた半兵衛は物音を聞き、一瞬で何が起こったのかを既に理解していた。
そうして寒そうに袖に両手を通した半兵衛が襖をあけて廊下に出てきた。病人の半兵衛をこのうすら寒い廊下に出すなど言語道断。佐吉は掴んでいたnameの足を投げ出して半兵衛の元に参上すると首を垂れて事の顛末を手短に報告する。
半兵衛は佐吉の腕に点々と残る火傷の痕にそっと触れて「薬師に言って軟膏を塗ってもらっておいで」と言う。佐吉は気になるのか背後で未だ臥しているnameをちらりと振り返る。「大丈夫だから、ほら」そう言って笑った半兵衛に背中を押され、佐吉は半兵衛の部屋を越えて奥へと廊下を進んでいくのだった。それでも何度もnameを振り返り振り返りして歩く佐吉を可愛らしく思いながら、半兵衛は着流しの袷をしっかりと合わせてnameの元へ行き屈み込む。

「name、」

うっうっと咽んでいるnameの身体を抱き起してやれば涙と鼻水で彼女の顔は大変な有様になっていた。笑い出しそうになるのを堪えながら半兵衛は額や頬に張り付いたnameの髪を指先で整えてやりながら小さな身体を抱き上げる。もう椀の載っていない盆を、それでも離すまいと握る小さな手は爪の先まで白くなっていた。後ろ手に襖を閉めた半兵衛はnameを抱えたまま布団の上に坐する。崩した足の上に乗せられたnameは絶望的な顔で半兵衛を見上げた。言葉を失って肩を震わせているnameの背中を半兵衛はあやすようにして撫でてやる。

「僕の為に寒い中おつかいに行ってくれたんだね」

「っ、う…は、い…」

「ありがとう」

そう言って腕の中のnameを半兵衛はぎゅっと抱き締めるけれど、肝心のnameは「でも…でも……」と再び涙をぼたぼたと零し始める。半兵衛はnameと佐吉が無事に帰って来てくれたこと、自分の為にこの雪が降りしきる寒い中城下の外れまで走ってきてくれたことだけで十分だった。しかしnameはそうではない。ここにいないが無論佐吉もそうであった。

「いいんだよ、甘酒はまたそのうちに……」

「でっでも、あのあまざけ、っは、名人のひと、が、つくってて、そ、っそれで、」

さきほど考えていた口上を何とか言おうとするも、混乱しているnameの頭ではうまく言葉が紡げずバラバラになってしまうのだった。

「それで、それを飲めば…っ、半兵衛しゃまも、あったまって、うぅ…っ、それでっ、それでっ」

風邪も、風邪も。と言いよどむnameはもどかしさのあまり半兵衛の腕の中で身もだえして涙をこぼした。仕方のない子だ。半兵衛は困ったように眉を下げてそんなことは気にしなくていいんだ。僕は君たちの気持ちだけで十分に嬉しいし、風邪もよくなる気がするよ。そういった類の事を心を込めて諭すのだった。事あるごとに「本当に?」「そうなのですか?」と瞬きと共に涙の雫を落とすnameは半兵衛を見上げ、そのたびに半兵衛は「本当だとも」「勿論そうさ」と微笑むのだった。そうしてようやくnameの顔に笑顔が戻ったころ、腕に布を巻かれた佐吉を従えて鍋を手に持った秀吉が半兵衛の部屋にやってくる。一瞬で部屋を満たす甘い香り。

「あ!甘酒だ!」

「name!指をさすな!」

秀吉の手にしている鍋をびしりと指差したnameは半兵衛の腕から飛び出して秀吉の元へ行く。控えろ、頭が高い、無礼であろう。目を輝かせて鍋を覗き込むnameの腕を引っ張る佐吉を「構わぬぞ佐吉」と言って制すると秀吉は佐吉の手から椀を受け取り甘酒を注ぐ。
さっきまでの涙はすっかり消えて、nameは二つの椀を手にきゃっきゃと声をあげながら半兵衛の膝の上へと再び戻る。そして「おいしい!」と目を輝かせるnameと半兵衛はにっこりと笑みを交し合う。佐吉はといえば主君直々にいれてもらった甘酒を恐れ多くて飲むことができず、正座をしてきっちりと揃えた膝の上に椀を乗せくるくると手の平の中で回しているのだった。そしてその主君はといえば椀ごと口に放り込みかねない勢いで甘酒を飲み干すと「これは確かにうまいな」と言って満足そうに頷くのだった。

「佐吉、早く飲まねば冷めてしまうぞ」

「は……はっ!」

秀吉に促され、漸く佐吉も椀に口をつけて飲めば、身体の内側からぽっぽっと火が灯ったような温かさに包まれる。

「おいしいね、佐吉」

「貴様が溢さなければ……」

そこまで口にして佐吉はハッと口を噤む。笑顔だったnameの顔は見る見るうちに雲行きが怪しくなったからだ。慌てた佐吉は「つ、次は転ばぬように気を付けろ」と言うと残りの甘酒をnameにくれてやるのだった。
四者四様、それぞれに頬をうっすら色づかせ舌鼓を打つ。雪降る寒さなど関係ないようなあたたかさが半兵衛の部屋に満ちていた。

【かみさまのゆめ】
- ナノ -