2015

引っ越したから遊びに来てよと誘われて行った左近のアパートは一言で言えば最悪だった。二言だったらとっても最悪。
朽ちかけたコンクリのブロックは辛うじて道とアパートの敷地を区切っていたけれど、私がもたれかかったら、いや、強風でも吹いたら倒れてしまうんじゃないかと思うほど見るからに脆そうだった。二台ある駐車スペースに敷かれた砂利はてんでに生えた雑草で覆われていたし、何とかハイツと書かれた(しかも筆で!)木の札は雨ざらしになって何ハイツなのかすらわからなかった。
ハイツと言うよりは何とか荘って名前の方が合ってるよなぁまあなんつーかそのギャップ?がいいっしょ?みたいなふざけた事をつらつらと吐いて私を振り返った左近はカンカンと足音を響かせて塗料の剥がれてささくれ立った階段を上がってゆく。
ぎぎぎと不穏な音を立てて開いた扉の取っ手は今日日公共施設のトイレの方がよっぽどしっかりとした安全確保をしてくれるんじゃないかと思わせるほどに旧式のドアノブで、しかもその薄さといったらベニヤ板を二枚貼り付けただけみたいな扉なものだからそれが更に私の不安を煽るのだった。

「いやーちょっと散らかってるけど」

そういって左近が照れたように指差した部屋の中はまさにカオスであった。
六畳一間のその部屋はろくに日も入らず、明らかに敷きっぱなしの布団の枕元には、中身を想像するだに恐ろしい灰皿替わりの空き缶が二つほど置いてある。部屋の隅には脱ぎっぱなしなのか干して畳んでいないだけなのかの判別すら不能な下着やロンティーが山になっている。
まさかと思って恐る恐る横を見れば案の定台所のシンクには山盛りのカップラーメンの空容器が洗われないまま積み上がっていた。

「最悪」

「あ、やっぱり?」

「よくこの劣悪な環境で生きていられるよね」

「適応能力高いからさ、俺」

「褒めてないよ」

「まぁnameさんの部屋に比べたら多少はアレかもしんねーけどさ」

多少…。そう呟いたまま立ち尽くしている私の手を取って左近は足だけで靴を脱ぐ。慌てて私もパンプスを脱いであとに続くけれど、この部屋のどこに腰を下ろせばいいのやら。左近はまるでブルドーザーが砂山を片すみたいにして床を埋め尽くすあれこれを部屋の隅に押しやったけれど、そこから現れた色褪せた畳には恐らくコーヒーを零したらしき染みがでかでかとついていて私は言葉を失った。

「じゃあ取り敢えずこっちにどーぞ」

薄茶色の染みを引っ張ってきた上着で隠して左近は敷きっぱなしの布団の上に胡座をかいた。可愛らしい笑顔を浮かべてちょいちょいと手招きをしてくるものだから反射的に私は彼の股座の中に入ってしまう。ぎゅ、と背後から抱きしめられてうなじに鼻を押し当てられる。図ったなと思ったけれど、まあいいかと息をつく。
左近の引越しはこれで三回目だけれど、引越しの回数を重ねるたびに部屋のランクは順調に下がっている。パチンコとかそろそろやめなよ、いつも言っているけれど中々彼が聞き入れることはない。扉の隙間から漏れてくる雑音のごった煮みたいな塊が耳の隅を掠めたような気がして私は顔を顰めた。
突然轟々と音を立てながら裏の線路を電車が通る。驚いてびくりと揺れた身体を左近はくつくつと笑いながら強く抱き締めた。

「俺、nameさんの案外ビビりなとこ、好きだわ」

「ビビりじゃないし、べつに」

何もしないままゆっくりと時間は流れていく。布団は少し湿気ってしっとり冷たかった。干していないせいか硬く薄っぺらくなったこの布団で左近が寝ているのかと思うとちょっとだけ不憫だな、なんて思うけれど彼が選んだ道なのだから仕方があるまい。私のアパートにおいでよと誘うことは簡単だった。けれどきっと、左近はそれを喜ばないだろう。一緒に暮らすとか、婚前の男女が不純っすよ、なんてガラにもない冗談を言われたことを思い出す。
でも彼も彼なりに考えていることがあるんだかないんだか。別にこのままずるずる付き合っていても私としては構わないんだけれど。それにもし結婚するにしても元が器用なのだからいざとなれば叩き直して左近が主夫でもなんでもやればいい、ぐらいに私は思っている。
何分かおきに通る電車は古ぼけた窓をがたがたと鳴らす。後ろから抱き締められている安心感に私はつい眠たくなって欠伸をひとつすれば、ヤニくさい空気が肺の裏側に染みついた。「眠い?」甘えるような声を出した左近が耳元で囁いた。喉元を人差し指で撫でられて目を閉じる。こういうところだけ一丁前の男なんだ、こいつは。
なし崩しになって抱き合って、目覚めた時にはもう夕方だった。たたんたたんと電車が行く音で瞼が開く。壁が薄いから声を我慢するのにひどく苦労した。私が必死になればなるほど左近はわざと意地悪なことをした。
気怠い下半身を布団の中で身じろぎさせて左近を探す。日焼けしたレースのカーテン越しに電車の明かりがサーチライトのように部屋の中を照らす。それを背にして開け放たれた窓のサッシに腰かけた左近が煙草の煙を長く吐いた。

「起きた?」

「ん」

アルミ缶ではなくて、ちゃんとした灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、窓を閉め立ち上がってこちらにやってくる。上体を起こしただけの私の隣に「よっこらせっと」と言って腰を下ろした左近は胡坐をかいて私に向き合う。背中を丸めてこちらを覗き込むような仕草をしたかと思えば、ピンと背筋を伸ばして鼻の頭を二三度掻くと真っ直ぐに私の目を見つめる。

「あんさぁ…」

どうやら真面目な話が始まるようだったので私はとりあえず近くに落ちていた左近のシャツを頭からかぶる。乱れていたらしい髪を伸びてきた左近の手が直してくれた。

「俺、あんたの事幸せにしたい」

「……急にどうしたの」

「いや、nameさんの寝顔見てたら改めてそう思って、そんで……」

うわ、恥ずかしっ。そう言って私の手を握って頭を抱えてしまった左近の髪に触れる。困ったような照れたような瞳を向けられては「じゃあまずは定職に就こう」だなんて言えるわけもなくて。

「ありがとね」

そう言って私まで困った顔になってしまう。嬉しくて、恥ずかしくて。犬がじゃれるみたいにして抱き付いてくる左近を受け止めれば、彼が今さっきまで吸っていた煙草の香りに全身を包まれる。嫌いじゃない、と思う。煙たい中にすうっとするメンソールの香り。安心するのだ。バイバイした後にわざと頭を振って匂いを嗅いでしまうぐらいに。でもそんなこと、口が裂けても左近には言えない。きっと、私は自分が思っているよりも、そして左近が感じているよりもずっとずっと、左近のことが好きらしい。

「しっかりするから、だから、もう少し待ってて欲しい」

「いつまででも待つよ」

「っしゃ!」

私の背中でガッツポーズをした左近にキスをされた。ちょっぴり苦いキス。とりあえず明日この部屋を一緒に片付けよう。小言も口をついてしまうだろうけど、そんなことは問題じゃない。左近の肩越しに見える洗濯物の山やごみ袋をできるだけ視界から押しやって私は思う。たとえこれが通算5回目のプロポーズもどきだったとしても、私はこうして容易く受け入れてしまうのだ。年下で頼りなくて、でも何故だか頼れるような気にさせてくれるこの六畳一間に住むどうしようもないフリーター男を。

【This! is! LOVE!】
- ナノ -