「退け、name」
「はいっ」
私の目を見ずに兄上は言った。そう遠くない最前線で、武田と徳川の兵がぶつかり合っている。もはや徳川の敗走は誰の目にも明らかだった。噂に違わぬ強兵揃い、流石は武田としか言いようがなかった。そうこうしている間にも、徳川の旗印は見る見るうちに減ってゆく。圧倒的劣勢。兄上に続いて馬を翻す。少しだけ遠のいた喧噪。しかし追いつかれるのは時間の問題だった。逃げねば。手綱をしかと握り、前だけを見据える。少し駆けたところで見慣れた鹿頭が馬上でこちらを向いていた。
「兄上、忠勝が!」
「見えておる」
そう言うと兄上は速度を上げて忠勝の元へと一直線に馬で駆けてゆく。「遅いぞ康政!」この騒がしさの中でも忠勝の声は良く響く。私は馬を止め振り返る。これだけ走ってきたにもかかわらず、前線は遠のくどころかむしろ近づいてきている気さえする。辺りには濃い血の匂いが漂っていた。兄上に号令をかけられ、先に撤退してゆく榊原の軍勢の波を眺めながら、この中で何人が浜松の城にたどり着けるのだろうと唇を噛む。平時のように飄々とした口ぶりで話していた兄上に、忠勝が何かを怒鳴っていた。
「name、先に行っていろ」
「兄上、忠勝が殿なのですか?」
「そうじゃ」
憮然とした態度で忠勝が言う。
「兄上、nameも忠勝とともに殿を務めます」
「……」
「何を言っておるのじゃ、貴様はいいからその無駄口男をさっさと連れて行け」
「忠勝、人の悪口を言うのは良くないと思うが」
「黙れ!」
「してname、どうせわしが止めたところで言うことを聞かぬ妹だということは重々わかっている」
こめかみに青筋を立てている忠勝を無視して兄上がこちらに向き直り、頷いた私に小さく首を傾げて続けた。
「それを承知で言うが、お前が殿に加わることは許可できぬ」
「兄上っ!!」
喧噪が、徐々に近づいてくる。
「おい!兄妹喧嘩なら他所でやれ!」
舌打ちをした忠勝は槍を握りなおして吐き捨てた。
「兄上、nameは必ず生きて戻ります」
「……」
兜の下から兄上の涼やかな目元が覗いていた。私はそれをじっと見つめる。しばらくの間をおいて、兄上の薄い唇がふっと緩んだ。
「忠勝、わしの妹を地獄の道連れにだけはしてくれるなよ」
「わしが向かうは浜松城じゃと言っておろうが!!」
「兄上、ご武運を」
「そなたもな」
馬を寄せ、私の頭をひと撫ですると、兄上は馬の腹を蹴り再び走り出す。
「知らんぞ」
「ふん、女に武功で負けたと泣かぬよう精々気を付けるのだな」
「name…兄妹そろって貴様らは!」
「槍で突くは敵ぞ。私を間違って突いてくれるな」
「たたっ切るぞ!!」
馬から身を乗り出した忠勝を無視して私は馬の鼻先を前線へと向けた。土煙が、迫る。刀の柄を握り、姿勢を低くした。息を深く吸う。迷いはなかった。肉を切り、矢を払う。少し離れたところで忠勝も槍を奮っていた。刀身に着いた血糊を振り払う。切っても切っても湧いてくる武田の雑兵達とは対照的に、徳川の軍勢は逃げる者も含めて驚くべき速さで減ってゆく。これでは拉致が明かない。息を整え、徳川勢を乗り越えてこちらに向かってきた武田兵を切っては払う。刀を握る手が、徐々に痺れてくる。殿は、そして兄上は無事城まで戻れただろうか。
そこに忠勝の叔父上、忠真殿がやってきた。
「忠勝、そなたも退けっ!」
そう言った叔父上に忠勝は「しかし」と引き下がる。
「叔父上」
「name?!何故そなたがここに居るのだ!」
「兄上に申し出て忠勝とともに殿を務めております」
「何という…。そなたも忠勝とともに先に行くのだ」
「退きませぬ」
「なっ…!」
今度は忠勝が言葉を詰まらせた。
「name、ここに残ってもあるのは死だけぞ。そなたが本多の家の為にその命を無駄にすることはない。退けと言うたら退くのだ」
「私は女子にござりますれば、」
「そうだったのか」
「黙れ忠勝」
忠勝を睨んで私は続ける。
「家督も武功も関係のない私がこの場で死したところで榊原の家には何の痛手にもなりませぬ。女子だというに、ここまで徳川の御為になるよう尽力くださった叔父上に、私は恩返しがしたいのです」
兄康政と忠勝の仲が良く(傍目に一言で「良い」と言えるものかは別として)、互いの家を行き来するうちに私も兄上も、忠勝の父代わりである忠真叔父に武芸を習っていたのだった。今の私がここに立っていられるのは、少なからず叔父上のお陰なのである。じゃじゃ馬娘じゃ、と豪快に笑いながら稽古をつけてくれた昔を思い出す。鷲津の砦でわしを救ってくれたは叔父上じゃ。いつだったか忠勝はそう話していた。叔父上は、わしの恩人じゃ、と。忠勝同様、本多にはなくてはならないお人なのだ。ここで失うわけにはいかない。
「ですから叔父上、忠勝とともにお行きください」
私は馬を数歩進ませ叔父上の馬の横に付ける。
「お世話になりました。このご恩、nameは決して忘れませぬ。そして兄上によろしくお伝えください、約束を破ってしまい申し訳なかった、と」
「name…」
叔父上が私の頬に着いた血を指先で拭う。目を閉じて、一礼した。そろそろだ。もう一刻の猶予も許されない。目を開け、馬の腹を蹴ろうとしたその時だった。おもむろに腕を掴まれ馬上から落とされる。突然の出来事に、地面に尻もちを着き腰を抑える。視界に星が飛んでいた。
「はっは、そなたは誠に愉快な女子じゃな、name。忠勝っ!nameを連れて殿の元へ行けいっ!」
そう言って走り出した叔父上を忠勝は僅かの間見つめると、呆然としている私の腕を掴み自分の馬上へと引き上げる。
「放せ忠勝!叔父上、お待ちください!叔父上っ!叔父上ーっ!!」
「行くぞ」
徳川の旗印を左右の地面に突き刺し、堂々と名乗りを上げた叔父上の背中が涙の向こうで霞んでいた。放せ放せと暴れるも、忠勝の力に敵うはずもなく。私は成す術もなく馬上で揺られ、ひたすらに、あろうはずもない叔父上の無事を神仏に願いながら浜松城へと向かうのだった。屍を越え、血の海を越え、宵闇に蹄から砂塵を巻き上げどこまでも馬は駆ける。乾いた蹄の音が、ぼうっとした頭の中に虚しく響いた。
煌々と篝火の焚かれた浜松城の城門を潜り馬を下りた忠勝は、まだ馬上で呆然としている私に舌打ちをして腕を掴む。放せ、と言いたかったが声が出なかった。そのまま忠勝の脇に抱えられ本丸へと向かう。無事に戻ってこられたという安堵よりも、叔父上を死なせてしまったという自責の念の方が大きかった。私なぞの為に。いや、違う、叔父上は私などではなく、本多家当主である忠勝を逃がしたいというのが本心だったのであろう。最後に叔父上が私に言った「忠勝を、頼んだぞ」という言葉が、耳に焼き付いていた。私が男であれば、私にもっと力があれば。噛み締めた唇から一筋の血が伝う。どずどすと床板を踏む忠勝が、壁にもたれかかっている誰かの目の前で停止した。
「届け物だ、受け取れ」
「しかと受け取った」
半ば投げつけられるようにして私は兄上の胸元へと返される。頬にひやりとした胴の冷たさを感じる。ぽん、と頭に兄上の手が乗った。耳に膜が張ったかのように、頭上で交わされている二人の会話と、世界の音とが遠かった。ただ、兄上の腕の中にいるという安心感だけが私の唯一の救いだった。
「詰め所に、行っております」
私はそれだけ言うと覚束ない足取りで奥の間へと向かう。殿が無事ならば、それでよかったのだ。兄上も怪我なく戻った。私も、忠勝も。ぼたた、と涙が落ちる。具足もそのままに、息絶えるように転がった畳に横たわると頬を畳に押し付ける。童のように丸まり、両の拳を握りしめた。頬を伝う涙が次々と畳に吸い込まれてゆく。宵の口のだというのにすっかり濃紺に変わった師走の夜空で、いつもと変わらぬ星々が輝いていた。開け放たれた衾から冬空を眺めるともなく眺める。さぁっと引いたような雲が時折月を隠し、それが去ればまた部屋は月明かりに照らされた。
どれほどそうしていただろう。睫毛の先に乗った涙が明かりを弾くさまを眩しく思っていると、あの荒々しい足音共に忠勝が現れた。
「いつまでそうしているつもりだ」
「……」
黙っている私の膝元に腰を下ろすと胡坐をかいて腕組みをする。何かを言おうとしたけれど、言葉が見つからなかった。
「武人が泣くな」
「私は…女子でもなければ…武人ですらないわ…」
折角止まっていた涙が胸の奥でせり上がる。鼻がつんと痛い。
「泣くなと言っておろうが」
「そなたが…泣かぬから、私が…泣くのだ…」
零れそうになる嗚咽を噛み殺し、私はごろりと寝返りを打ち忠勝に背を向ける。ち、と舌打ちの音が聞こえた。
「name」
「……」
「おまえが戦場に赴くはこれが最後ぞ」
「な、」
「康政とわし、そして…亡き叔父上の総意じゃ」
「断る」
「そんななりだがお前も女子であろう、女子が戦場で刀を振るうて何になる」
「…私の働きが何にもならなかったから、だからそのようなことを言うのか?」
むきになった私は涙を拭うことすら忘れ起き上がり、輪郭を失った忠勝の顔を睨む。心の臓が脈打ち、うまく息ができなかった。私は、私は無力なのだ。突きつけられたような気がして。微力なれど徳川の御力になるんだという一心で追ってきた夢。それだけではどうにもならない壁が、今目の前に聳え立つ。決して越えることのできない壁が。
「何にもならなかったなどと誰が言った?そもそも女子が男と競うこと自体が間違っておるのじゃ!」
「女子だからと馬鹿にするなと言っておろうが!」
詰め寄った私の両肩を忠勝の手が突く。不意の出来事に私は呆気なく仰向けに畳の上に倒れてしまう。何をする、と起き上がるより早く忠勝が私の上に馬乗りになった。
「放せ!この不埒者!」
「ならばわしのこの手を振りほどけ!それすら出来ずにまだ強がるか!」
掴まれた両手首に込められた力が強くなる。みしりと骨が鳴る音が聞こえた気がした。敵うわけないであろう。言う代わりに私はしゃくりあげる。泣くな、泣くな。泣いたところで何になる。これまで何度となく己に言い聞かせてきたことだった。そうして一心不乱にここまでやってきた。それなのに。
「康政もああ見えて心配しているのだ。…ああ見えてな」
「知っておる」
「わしとて…」
そう口にした忠勝は言い淀むと、言葉の続きを言う代わりに眉間の皺を深くした。夜に見る彼の姿は黒く膨張した宵山のようだった。雲居が流れ、明るい月が顔を出す。忠勝の頬に、拭いきれていない血糊が乾いて張り付いたままになっていた。そっと、そこに手を伸ばす。爪の先で引っ掻けば、ぽろぽろと剥がれて畳に落ちる。私の指先に注いでいた視線を瞳に戻す。私はそれから逃げるようにして、忠勝の小袖の袷に目を向けた。
「戦の時は、衿を詰めるのだな」
「は?」
「忠勝はもう少しきちんと衿を合わせろと、いつも叔父上が嘆いておった」
「……」
「忠勝、私は…」
私は。自分の言いたいことを忠勝の瞳の中に探す。殆ど縋るような気持ちで。私を抑える忠勝の手首にそっと触れる。忠勝は一瞬たじろぐと、ぱっと私から手を離し座り直した。
「辛気臭い顔をするな、気色悪い」
「今ぐらいは許せ」
「ふん」
重たい身体を起こして忠勝の背中に自分の背を預ける。広く、頼りになる背中だった。悔しいけれど、認めざるを得ない。袖口で涙をぬぐい、瞬きをする。星の輝きが、増した気がした。
「わしはゆくぞ」
暫くして腰を上げようとする忠勝。私は咄嗟にその手を取って引き止めた。
「もう少しだけ、」
振り返って見上げれば、忠勝は困ったような面倒そうな表情を浮かべて、それでも再びどかりと腰を下ろした。態とらしい溜息の後に「お前と二人きりで居ると後で康政がねちねちとうるさいんじゃ」と言い訳のような呟きが背後から聞こえてくる。私はそれにふふ、と小さく微笑んだ。後ろ手に伸びてきた忠勝の手の平が、私の頭を乱暴に撫でる。わしわしと、まるで犬か何かを撫でるかのように。それは彼に似合いの撫で方だった。無骨で、不器用な忠勝の。
瞼を降ろせば広がる暗闇に、無数の星々がさんざめいていた。仄かに熱くなった目頭に集まった星々は、瞼の隙間からきらりきらりと流れ落ちてゆく。ひっそりと涙を流しながら背中越しに感じるのは、あたたかな忠勝の鼓動なのだった。
【あなたのいる世界の為に戦う】
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