2015

庭を挟んで向こう側に見える御簾の奥にnameの暗い影がぼんやりと浮かんでいた。忙しさにかまけ奥に渡るも久々のような気がして、ほんの少しだけ鼓動が速くなっている気がする。
最後に肌を重ねたのはいつだったか。戦だの内政だの軍議だので、ここのところは落ち着いて屋敷に腰を据えることすらままならない日々だった。
ようやく大きな戦もひと段落し、暫くは溜まった内々の雑務を屋敷で消化する日々が続くであろう。そうすればもう少しnameのことも構ってやれる筈。
ひたひたと踏みしめる床板は冷たかった。ひどく恥ずかしがりやの妻の為に閨の周りは人払いをさせておいた。その分屋敷の入り口と周囲の警備を固めたのだから不都合はないであろう。
御簾の前で立ち止まる。細い竹籤の隙間から蝋燭の朧げな灯りが漏れていた。屈んで御簾を捲り中に入る。

「name」

呼んだ名に、妻が振り返る。不安げな表情が一転して安堵の色に染まる様を見ると心が安らぐ思いであった。
と、にじり寄ってきたnameに突然抱き着かれ、些か驚く。我が妻は斯様に積極的な女子であったろうか。否。己が腕に抱き、頤に手を添えるまでこちらを見ることすら出来ないような内気な性の持ち主である。
自分が不在の間に寂しさのあまり性格が豹変してしまったか、それとも妖にでも憑かれたか。
薄い背中に手を伸ばすと、鼻先が触れるか触れないかの距離でこちらをnameが見つめるのだった。一文字に走る傷に唇が触れた。柔らかな感触。そして唇は離れる。彼女の後頭部に手を添えて引き寄せれば、その小さな白い手が着物の胸元をぎゅっと握りしめる。桜貝のような爪が蝋燭の明かりにつやつやと輝いていた。

「そなたをこうするのも、久しぶりじゃな」

「…お会いしとうございました」

耳元で囁くように聞こえてくるnameの懐かしい声。さて、これからどうして懐柔しようか。思案を巡らせていると、髻を解いて一つに緩く束ねただけの髪をnameの指が梳きだした。驚き、僅かに眉を上げてnameを見れば、いつもであればすぐに視線をそらしてしまうというのに今宵はそうせず、あまつさえこちらを覗き見るような仕草で見上げてくるではないか。

「なにか、あったのか?」

しかしnameはこちらの問いには答えようとはせず、閉じきらない唇に自分のそれを重ねるのだった。そのあまりに積極的な妻の態度に混乱しつつ、受け止める。普段なら触れるだけで終わってしまう口付けも、今であればもう少し深く味わっても拒否されまい。そう思い舌先でnameの唇を割った。
抱いた腰がびくりと跳ね、奥の方に後退ろうとする彼女の舌をつついてやれば身体は哀れなほどに強張った。目を閉じずにその様子をつぶさに見ていると、呼吸が苦しくなってきたのか段々と眉根が寄ってゆく。
唇を離して、そしてもう一度軽く唇を合わせれば、もうこれ以上は無理ですとでもいうようにしてnameは肩口に顔を埋めてしまうのだった。
顔が見たくて頬にかかった髪を耳にかけてやる。すると黒々とした髪の奥から真っ赤に染まった耳朶が現れた。触れれば熱く、細やかな産毛が淡い蝋燭の焔にきらめいていた。

「……無理をしておったのか?」

「ち、違うのです、無理などではなく…ただ…、」

気持ちが逸ってしまって…。今にも消え入りそうな声で言うnameの態度はつい先ほどまでとは一変して、見慣れたいつもの子兎のようなそれであった。困ったような泣きそうな瞳でこちらをちらりと見ると、矢張りnameは顔を見られまいとして胸元に頬を寄せてしまう。その愛らしい振る舞いに、つい口元が緩むのだった。
nameの形のいい後頭部はとてもよく手に馴染む。艶のある細い髪も、手のひらに心地良い。
けれど、どうにも今宵はこの髪を乱したくてたまらなかった。そしてハタとあることに気が付く。そんなことを、これまで思ったことは一度もなかったのだ。大切に、壊れぬようにそっと腕の中で抱くことばかりを考えていたというのに。
気が付けば褥に押し倒したnameの髪が広がっていた。驚いたように目を見開いたnameの額に唇を押し当てると、「灯りを、」と泣きそうな声で言うではないか。久々なのだ、顔を見せてくれてもよいであろう。そんな好色男めいた言葉が、口から零れた。
ああ、寂しさのあまりどうにかしてしまったのはわしの方であったか。仕様もない。
子供のようにいやいやと首を横に振る妻の細い身体を抱きしめる。柔肌に直に触れれば、あっという間に上がる体温。
ほどけた桜色の唇からは熱を孕んだ吐息が漏れた。顔を隠そうとする腕を掴み褥に縫い付ければ涙の膜が盛り上がり、眦から溢れ出たぬるい水がふっくらとした頬を伝って一筋流れた。舌先で掬うとnameはこそばゆいのか肩を竦める。
露わになった白い首。綺麗に浮いた筋に浮かぶ陰影に誘われるようにして顔を埋める。肌を吸い痕をつければ、そのたびにnameは小さく声を上げるのだった。

いつの間にか蝋燭は消えていた。汗ばんだ肌は乾いた肌以上に互いを引き付けた。何かを求めるようにして彷徨うnameの手を取り握る。肌に食い込む爪のささやかな痛みが心地よかった。自分の上で乱れる様も見てみたかったが、その道のりはやはり遠そうである。長秀さま、長秀さま。呂律の回らぬ甘い声音で啼くname。広がる髪に指先で触れる。
もっと、乱れればよい。
そう思った瞬間、目覚めてはならぬ獣が腹の底で唸り声を上げたのを聞いた気がした。けれど、愛するが故に獣を囲う檻は強固なのだ。決して牙をむくことは無いであろう。それを少し、残念に思う。

「name、」

ぽたりと額から汗が一滴落下した。身体の下で揺れているnameの眦に落ちたそれは彼女の涙と混ざり合い、消えていった。
もう少し、強気な妻も見てみたいものだ。とはいえ、こうもいじらしい態度を取られてしまってはどうしようもないではないか。毎度、そうなのだ。
味わう身体は熟れた果実のようだった。
幸い今宵は辺りに人はいない。そのことをそっと耳打ちすれば、僅かにnameの声が上ずった。
気が逸っておったはこちらも同じであったということだ。愛おしい妻の、自分だけに見せる姿をどれだけ見たいと思ったことか。
凍えるような早春だというのに、頭がのぼせたように熱かった。己の名を模る唇をまた塞げば濡れた瞳が切なげに歪み、まるでそこに全身が吸い込まれてゆくようだった。
ほの白い肌に咲いた朱い花が、大層美しい夜であった。

【ためらいがいらないなら】
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