2015

三成は今日も陽の光の当たらない寒々しい部屋の中で伏していた。ろくにものも食べていないから、白米を軟らかく煮たものを持ってゆく。襖を開ければ飛び込んでくる白。夥しい量の紙。三成はその中に埋もれるようにして横たわっている。
手あたり次第、目についた文字をぶつぶつと譫言のように繰り返す彼は、まるでここにはいない人のようだった。床を埋め尽くす紙のほとんどは書状であった。半兵衛さまと、秀吉さま。今は亡き、お二人からの。
移ろいゆく日々の中で、三成は一人ぼっちでその流れに抗っている。何もかもが不確かなこの世界の中で、三成だけが確かなものだった。けれどその姿はあまりにも痛々しくて。
「ごはん、食べなよ」そう言って肩を揺すると三成はぽかんとしたような顔でこちらを見た。月の光を集めて煮詰めたような三成の瞳は何も映していなかった。泣いてくれればどれだけよかったか。

「秀吉さまから、お呼びがかかったのか?」

「ちがうよ三成。三成はちゃんとご飯を食べているかって、……秀吉さまも心配していたよ」

「name、貴様、私に黙って秀吉さまにお会いしたのか!!」

「……」

気色ばんだ三成は、それでもやはり胡乱な目をしていた。
開かれている書状を手に取って一つずつ折りたたむ。可哀想な三成。これ以上ないほどに傷ついた心は、それでも崩壊を許されない。なんて惨いことだろう。

「お粥、冷めちゃうから早く食べなよ」

「腹など減っていない」

「それでも、」

食べなよ。そう言って私は床に置いた椀を三成の方に押しやった。がさがさ、と紙が擦れる音が響いた。
三成は何か言いたげな表情でお粥の入った椀を暫く眺めて、そしてようやく匙を手に取った。けれど半分も食べないうちに三成はもういいと言って椀を置いてしまう。

「秀吉さまに返事を書かねば。name、水差しに水を入れてこい」

そう言うと三成は足元の紙をかき分けて文机に向かう。けれどそこに乗った硯には乾ききってひび割れた墨がこびり付き、洗われないままの筆は毛先が固まって床に転がっていた。打ち捨てられた小筆を拾い上げる三成の背中はまた更に薄くなったような気がした。
静かで冷たい部屋の中、私の心まで凍ってしまいそうだった。

name。佐吉。
柔らかな声が聞こえた気がして、私はきょろきょろと部屋の中を見回す。明り取りの窓から微かに漏れいずる陽の光が、舞い上がる埃の粒子を白く浮かび上がらせていた。
水底から湧きあがる一筋の泡沫のように、記憶が胸の奥から浮動する。薄い空気の膜が弾けるたびに、その中に籠められていた些細な日常の風景が一つずつ蘇り、あたたかく部屋を満たしてゆく。
薄い半兵衛さまの爪、大きな秀吉さまの背中、日溜りみたいに優しい半兵衛さまの腕の中、絶対的な安心感のある秀吉さまの手の平。おいで、name。よくやった、佐吉。
そんな、私たちの全てだったものが、光となって私と三成を包み込む。

「三成…、」

背後から三成を抱きしめた。着物越しなのに背骨があたって痛かった。
失ってしまったのだ、私たちは。太陽は消えてしまった。ほの白い月の光を浴びて、静かに呼吸を繰り返す無力な生き物。冷たい身体を寄せ合って、思い出だけを糧として、忘れられた世界の片隅で生きてゆく。
三成の白いうなじに目を凝らす。そうすれば、失われてしまった大切な何かをそこに見いだせるような気がして。
青い血管が透けていた。鼻を寄せれば、水のように澄んだ骨の匂いがした。向こう側に行けば、永遠になれるのだろうか。
筆を握ったまま微動だにしない三成の掠れた呼吸音が、細い糸を紡ぐように繰り返される。潰えた命が息づく無言の言葉たちに手を引かれるようにして、私は置かれた刀に手をかける。それは三成が秀吉さまに拝領した太刀だった。

「秀吉さまにご報告する事柄は山ほどあるのだ…何から書けばよいか…name、何をしている、早く貴様も筆をとれ」

「うん、…うん。私も、」

秀吉さま、半兵衛さま。
記憶はなお尽きることなく湧きあがる。溺れるようにして私は喘いだ。水中でもないというのに、見上げれば光の揺蕩いの中にいることに気が付いた。
あたたかい。三成、あたたかいね。
退くことも進むこともできないのなら、久遠の時をその狭間で生きよう。三成が、もう誰にも傷つけられることのない安らかな場所で。
双子の嬰児のような格好で、私たちは紙の波間に身を横たえる。
きっとそれは、もう決して戻ることの許されないあたたかな、木漏れ日のようなあの日々に似ているはずだから。

「name……私は…」

「いいんだよ、三成」

もうなにも。
肌の上に音もなく降り積もる金色の粒子を感じながら、私は三成の骨ばった手を取った。

【世界はちゃんと美しかったから】
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