2015

そして結果として、わしはnameを失った。
戦から帰って来てみれば、足元に次女だとか従者だとかがずらりと並んで首を垂れていた。奥の方では慌ただしい足音すら聞こえていた。申し訳ありませんとひたすら繰り返すだけの侍女頭を筆頭に、男女共々ぶるぶると肩を震わせ額を床に擦り付ける。問い正せば何時の間にかnameが消えていた、と。恐らくは昨晩辺りに出て行ったのではないか、と。今にも泣き出しそうな声で答えが返って来た。
辺りの音が酷く曖昧だった。nameが消えた?そんな訳が、あってたまるか。頭蓋の裏が煮え滾るような熱さだというのに、手脚は氷のように冷たかった。そんな話を、信じてたまるか。
探せ。くまなく探せ。昨晩出て行ったのならまだそう遠くには行っていないはずだろう。確か、そのようなことを言った気がする。記憶は朧げだった。

nameを己の元に連れて来れば、自分のものになると思ったのだ。とても単純な考えであったし、それが間違いであるとは思わなかった。いつでも共にいられるのだ、と。
しかし、抱けば抱く程nameの瞳は澄んでいった。雪解けの水のような透明さが、やがてあの女の全てを侵食してしまう気がして恐ろしかった。
わしは其れを見て見ぬ振りをした。見なければ、無いことにできると思ったからだ。だからあの儚い笑顔を浮かべて笑うnameを、何時だって腕の中に抱いてきた。
ふらふらと彷徨うようにして辿り着いたnameの部屋。物も少なく、簡素な部屋であった。夜半ここを出たのだろうか、褥はnameが抜け出したそのままの形になっていた。それはまるで、蛹であった。
蛹。nameと庭を眺めた日々が蘇る。交差しながら飛ぶ二羽の蝶、羽化したばかりの青白い蝉、長良川の鵜飼いに焚く松明の火の粉のような蛍の群れ、降りしきる一面の紅葉、灯籠に積もった白雪。
どれもがあまりにも鮮やかで、やはり今この瞬間にもnameは隣にいるのではないか、己らの目に見えぬだけなのではないか、と思って虚空に腕を伸ばすが、しかし指先は虚しく空をかくだけだった。
そのままの拳を鏡に叩きつける。割れた破片が皮膚を裂いたが、そんなものがどうだというのだ。
nameは出て行く時に何も持っていかなかったようだった。辺りを見渡す限り、そのように見受けられた。…いや、ひとつだけ。
いつも確かに、ここに置いてあったはずだ。見間違えるわけがない。何故ならあれは、わしがnameに贈ったものだからだ。
大切そうにそれを少しずつ使う様を見て、また買ってやるのだからそんなにけち臭い使い方をするなと言った自分に、nameは「これが、わたしにとってはまさにこれが大切なのです」と言ってはにかむように微笑んでいた。あの寂しそうな笑顔ではなく、年相応の女としての笑顔であった。
良かったと、思ったのだ。あやつを連れ出しここに連れてきて、正解だったと。それは自分だけの思い込みだったのであろうか。血が畳に滴る音が、やけに遠くでしている気がした。胸の内が空になった代わりに、切れた拳が熱く脈打っている。
何故だ。そればかりが頭の中を巡っていた。書き置きを探したが見当たらなかった。そうだ、あやつは文字が書けなかったのだ。
name、name、name。甘やかな香りの満ちる部屋の中を歩き回る。使われることの無かった文机を蹴り飛ばし、花器を壁に叩きつけた。そのような事をしてはなりませんよ、佐々さま。嗜めるnameの声はどこにも無かった。部屋はしんと静かで、己の荒い呼吸だけが響いていた。
足を引き摺るようにして庭へ出る。草履を履くことすら忘れていた。
最後に見たnameを思い出す。いつものように手を取り、額を胸元に押し当てた後、此方を見上げて「ご武運を、祈っております」と言ったname。柔らかな唇も、形のいい額も、小さな肩も、目を閉じれば尚そこにあるような気がした。
何もかもを喪ってしまったような絶望感に慟哭する。
そして、天を仰げば。

「……雨、」

雨だった。
しかし空は青く、どこ迄も澄み渡っていた。散らした螺鈿の粒の如き雨が、辺りを濡らし始める。
「雨は、嫌いではありません」
nameの声が聞こえたような気がして振り返る。居る筈も無い。わかっている。
「佐々さまは、雨男なのでしょうか」
今度は、耳元で聞こえた。確かに、聞こえたのだ。とうとう気でも触れたのだろうか。可笑しくなって笑い出せば、ますます雨は強まった。
name、どうやらわしはそなたの言う通り雨男らしい。だから早う、会いに来い。こうして雨が、降っておる内に。
空になった腕を抱く。あれ程までに染み付いた熱。忘れられる訳が無いのだ。nameの何もかもが。
ふと、背中に温もりを感じて再び振り返る。其処にはひらひらと舞う一羽の白い蝶がいた。白い羽の縁に丁度、あの貝に籠められた紅を薄っすらと引いたような色を乗せた蝶であった。
日の光に燦めく雨粒を四枚の羽に受け、その蝶はゆっくりと生垣を越え上昇してゆく。そうして、太陽と重なり、溶けるように白く消えた。
さらさらと降る雨の中、己の頬を伝うは果たして。

【雨之日綺譚巻之終】
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