2015

あの場所に行ったのは馬鹿犬に唆されたからであった。傾城屋に行ったことが無いのかだの、女に疎そうだの言われて、つい乗せられたのだ。その日は酷く雨が降っていて、これなら雨に紛れて忍んでゆけると思ったのだ。
案の定往来にほとんど人はなく、強くなる雨脚に家路を急ぐ人々ばかりだった。入るか、入るまいか。格子の向こうでしどけなく座る女を見て見ぬ振りし、幾度か行ったり来たりを繰り返す。どうしようか。入って不慣れを見ず知らずの女に笑われるか、それともあの馬鹿犬にやはり女は不得手であるのかと笑われるか。ええい、ままよ。
そうして顔を上げたわしは格子の中の女と目が合った。彼女の視線は雨粒など物ともせず、一直線に此方に向かって注がれていた。一瞬、周囲の喧騒が遠のいた気すらしたのだ。気が付けば自分の足は、引き寄せられるようにしてふらふらと店に向かっていた。
女は大層こなれた様子で(それはそうであろうが)わしの身体にしなだれかかった。女からは甘い匂いがふわりと香り、その匂いに目眩すら感じた。外の雨音に、己の緊張だとかそういうものが全て、隠されてしまえば良いと思った。
失敗はあったものの、女はそれを気にする様子もなく笑って、あまつさえ出たものを舐めたのだ。赤い舌で。
女の身体はいたく柔らかかった。腕を回して掻き抱けば、いとも容易く折れてしまいそうな程に。何もかもが美しかった。白い肌も、濡れ羽のような髪も、ふっくらとした唇も。
瞬間、泥濘に足を取られたような錯覚に陥った。足を抜こうともがいても一向に抜ける気配はなく、むしろ、必死になればなるほど沈んでゆくのだ。女はまるで、あたたかな泥のようだった。
そうして気が付けば女の中で爆ぜていた。そそくさと身なりを整え(濡れた袴の裾が不愉快だった)、見送る女を振り返りもせず店を後にした。しかしいくら足早に歩いても、雨の向こう、己の背中に痛い程に突き刺さる女の視線は消えなかった。
馬鹿犬のからかいも、もはや気にならなかった。何をするに付けてもあの女が脳裏にちらつき、離れてはくれないのだ。

「殿ー、あやつの様子がおかしいでござるー」

「えっ、なになに…まさか恋?」

「ちっ、ちが…!こ…こ…?!」

庭石に腰掛けてぼんやりしていると、馬鹿犬と殿に覗き込まれた。恋。まさかの言葉に動揺して思い切り手と首を振り否定すれば均衡を失った身体は其の儘後ろに倒れ、サツキの生垣に後頭部から突っ込んだ。

「あー…これは」

「恋、だね」

「断じて!恋など!…うわ、やめ!馬鹿者!」

起き上がろうとすれば、にやにやと笑う馬鹿犬に肩を小突かれる。隅に置けませんなぁ佐々殿。と態とらしい声で言う馬鹿から逃げるようにして庭を後にした。いつものようにやり合う気はさらさら起こらなかった。
恋など。……恋など。
開いた両の手の平を見る。まだ、そこに女の名残があるような気がして。空っ風が吹いて、指の隙間を抜けて行く。やめろ、奪うな。そんなことを思った自分が不甲斐なく、其の儘両手で頭を抱えて身体を折ると、堪らなくなって一声吼えた。そうすれば、はらりとサツキの花が地面に落ちたのだった。
遠くの方で「相当重症ですな」「だね…」という声が聞こえたが無視しておいた。

女の名はnameといった。しかしnameを思い出す時は必ず「女」と自分の中では呼んでいた。特別な意味を持たせたくはなかったのだ。例えそれが悪あがきだとしても。そして途方もない段階で手遅れだったとしても。
夜な夜なわしは女の夢を見た。裸形を晒し、ほっそりとした首筋は薄くかいた汗に光っていた。抱きたい。腕を伸ばすが、いつだって抱き締めた瞬間に女は霞となって消えていった。魘されるようにして目覚めれば、己の身体は決まって虚しいことになっていた。これでは、あまりにも。夜半、自分を慰めながら思う。会いたい、と。会って、抱きたい、と。

散々迷った挙句、結局またあの店の前に立っていた。来てしまえばもう入るしかなく。再び女と向き合っていた。女は足を崩し、脇息に凭れかかっている。独特の空気にやはり気後れし、唾を飲み込むたびに喉が鳴り、終いには口の中がカラカラになった。

「佐々さま、」

「な、なんじゃ」

「またお会いできて、嬉しゅうございます」

「……ああ」

商いの決まり文句に決まっている。だというのに頬の力が抜けていくのがわかった。だらしない顔を無理やり引き締めたおかしな表情を見られたくなかったので、女に近付き抱き締めた。夢で見たように霞になるようなことはなく、己の夢想の中よりも一層艶やかに女は甘く香った。
女は、指先で胸板の傷をなぞるのが気に入っているらしい。手習いをするようにして、弱く強く肌に触れられる。ぞわぞわと腰の辺りが疼く。単純に、身体は女を欲していた。しかし、交わって終わるだけでは余りにも惜しかった。

「佐々さまってば」

痛うございますよ。くすくすと、忍び笑い。夢中になって抱き締めていた所為で、力の加減が出来ていなかったらしい。にしても、女のこの笑い方。何故だろうか、胸が苦しくなる。
腕の中から顔をあげて此方を見る目が、薄っすらと潤んでいた。
今日も雨であった。斜めに強く降る雨は、庇を越えて縁側迄もを深い色に濡らしていた。

「佐々さまは、雨男なのでしょうか」

「知らん」

「雨は、嫌いではありません」

「……」

何故だ、と訊ねることが出来なかった。詮索をして、嫌われたくなかったのだと思う。例えそれが、どんなに些細な事だとしても。

「あぁ、あたたかい」

胸の奥から息を吐き出し女はしみじみと言った。確かに、雨に濡れてきたにも関わらず、寒さはちっとも感じなかった。まだ湿っている髪に、伸びてきた女の手が触れる。犬にするような手付きで頭を撫でると、そのまま腕を下ろして頬に手の平を添えた。皮膚を押す柔らかな弾力に、耳が熱くなる。押し倒しても、いいのだろうか。いや、そういう類の店なのだから良いに決まっているではないか。しかし。ざあざあと雨が降る音ばかりが耳に響いた。
ふっ、と女の唇が緩む。それに見とれていると、女のもう片方の手がするりと脚の間に伸ばされた。弄られ、つい身を捩る。

「…お嫌ですか」

水溜りのような目が揺れた気がした。嫌なわけがなかった。毎夜あれ程迄に焦がれていたのだ。上下する女の手に自分の手を重ねる。何処を見れば良いかわからずに、いや、少しでも何処かを見てしまったら、また直ぐに達してしまいそうで、ぎゅっと目を瞑って息を潜めた。
「佐々さま、此方を向いてくださりませ」耳元で女が囁けば、朽ちる寸前の桃のような香りが匂い立つ。その甘い声にどうしたら逆らえよう。
違う、違うのだ。お前を、わしは、お前を。…どうしたいのだ。いや、馬鹿げている。こいつは遊女なのだ。わしなぞ、唯の客に過ぎん。それだけではないか。

「どうされました?」

一点を見つめて微動だにしない自分を不思議に思ったのか、女は間近から此方を仰ぎ見た。

「いや、…何でも、ない」

「……そうですか」

どう致しましょうか、今日は。囁くように女は言った。桜色の唇。ふっくらとした頬。どうしたい。どうすればいい。混乱するばかりだった。むしろ、お前はどうしたいのだと、客である自分が女の機嫌を取ろうとしている。そして、したいようにしろ。絞り出してそう言えば、女は足元に身を屈めた。
女の口の中はあたたかであった。ぬめぬめとし、時に己を吸い上げた。可憐な唇は卑猥に歪み、折に触れて、女は見せつけるようにして髪をかき上げながら此方を見上げた。舐められ、吸われ、転がされ、突つかれた。ぽってりとした舌は何か別の生き物のように気儘に振る舞いわしを攻める。初めの内は腕を組んでいたが、次第にそんな余裕もなくなり、いつしか前のめりになって女の頭を抱いていた。嘔吐きながらも頭を上下させる姿がいじらしい。
口の中に出したものを、あろうことか女は全て飲み干した。止める間も無く、だ。口の端から零れた唾液を覗かせた舌先で舐めとると、女は目を細めて微笑した。
腕に抱くだけで良いなどと思っておきながら、やはり迫られれば拒めない。仄かに染まった目元が、あまりにも艶で。生唾を飲み込めば、くすりと女は笑うのだった。
そうだ、この女はよく笑う。その癖全く幸せそうには見えなかった。笑顔の後に見せる物憂げな表情が、寂しげだった。
前回と同じようにして膝に乗る女。その肩を掴んで押し倒す。女は一瞬驚いたように目を見開き、そしてふっと身体の力を抜いた。

「どうぞ、」

お好きに致してくださりませ。そう言って上がる口角。おずおずと、わしは女の脚を持ち上げた。拙い交わりだったことは否めない。しかし女はそれについてはなにも言わなかった。まぁ、客を下手だと誹るような遊女など、いないであろうが。抱いているのは此方というに、まるで抱かれているような心地であった。
結局、身体を交えてしまった。事が終わり、打掛を羽織っただけの女を腕の中に抱き、格子際に胡座をかいていた。やはり雨は止まない。城下の外を流れる川が、溢れてしまうのではないかと思う程の勢いであった。
肌蹴た袷から覗く女の谷間を、見て見ぬ振りしながら未だ夢心地だった。

「佐々さまはあたたかいので、離れたくなくなってしまいます」

「……また来いと、そう言うておるのか」

「さあ、どうでしょう」

くすくす、くすくす。はぐらかして女はまた笑う。柔らかな女の体温を忘れぬように、こっそりと己の肌に記憶させる。屋敷に帰れば、また独り寝なのだ。
まだ裾の乾き切っていない袴を履く。腰紐は、女が結んでくれた。膝立ちになり細い指先で器用に結ぶと、腰の辺りから大きな瞳を此方に向けた。この角度から見ると、案外幼い表情に見えることに気が付いて、息が苦しかった。視線をそらして眉を掻く。
女は立ち上がるとわしの手を取り胸に額を寄せる。腕を回したかったが、思い止まった。あの馬鹿犬なら気安く肩を抱いて「また来る」とでも言えるのだろうが、自分にはそんな真似は到底出来そうにはなかった。

「お気を付けて」

「ああ」

そう言うのが、精一杯なのだ。それ以上、どうしろと。軒から一歩踏み出せば、容赦無く降り注ぐ雨。今しがた迄腕の中にあった温もりを、払い落とすかのような降り方だった。拳を握り家路を急ぐ。少しでも、女の体温を己の身体に留めておきたかった。
あの、物憂げな笑顔が忘れられない。柔らかな身体も、潤んだ瞳も。
自ずと舌打ちをしていた。何に対する舌打ちなのかは、自分でもよくわからなかった。ただ、たった今別れたばかりの女に、もう会いたくなっている自分がいるということだけは、嫌という程にわかっているのだった。
雨は、止まない。

【雨之日綺譚巻之弐】
- ナノ -