2015

光秀さまの崩した膝に頭を乗せて、垂れて来た彼の髪を指先で遊ぶ。白雪に散った椿の黒紅の如き口唇が、柔らかく孤を描いていた。
安土の城にもこんな麗らかな日差しが降り注ぐのかと、誰もが疑いたくなるような穏やかな昼下がり。ああ、微睡みは直ぐそこに。
お眠りなさい。ふふ、と微笑を添えて光秀さまは言う。一見かさついた彼の声は、けれどその奥にねっとりとした何かを隠し持っている。蒲公英の綿毛に頬を撫でられるような心地で、私は細く開いた唇から吐息を吐いた。
おや。皮膜の向こう側から聞こえてくる光秀さまの声。私を覗き込んでいた面が上げられたのか、柔らかな毛先が皮膚を擽る。つられて顔を障子の方に向ければ、其処には。

「おやおや勝家、何用ですか」

「……書状を、持って参りました」

「それはどうも。その辺りにでも置いておいてください」

「はっ……」

濁った視界の向こうに、輪郭のぼやけた勝家がいた。

「こっちに、」

ゆるり、手を伸ばせばその行き先を興味深そうに光秀さまが見つめている。
膝でにじり寄った勝家は、首を垂れていた。畳に揃えられた彼の手を取る。僅かに潤いの欠ける手は、細面な彼に似合わず女子のようにふっくらとし、けれど節々はきちんとした減り張りをもつ男のそれであった。
鼻先に手の甲を当てると、乾いた草むらに住む飛蝗の背中のような匂いがした。

「name…さま?」

青い草むらに横たわる勝家を想像し、暫しそのままでいた私を不審に思ったのか、彼は緊張気味に身動ぎをする。
もう少し、湿っぽい匂いがすると思ったのだ。庭の隅に咲く、沈丁花の根元に、みっしりと生えた苔のような。強い花の香に紛れ、ふと鼻腔を掠めるあのひやりとした影のある透明な香り。

「素敵ね」

「……はあ…」

よくわからない、彼はそんな風だった。
草むらの香りは、私を静かな憂愁の中へと誘った。もう、朧げな、過去。夏草を渡る風と、波打つ銀色。涼しげな目が。……誰の目。

「ごんろく、」

その瞬間、部屋にさっと、風が吹いた気がした。
それは、誰の名だっただろう。あの薫風が、艶やかな黒髪から露わにした目の持ち主だっただろうか。白い額に、存外凛々しい眉の、……ああ。
意識はゆっくりと沈殿を始める。きっと、光秀さまが髪を梳いている所為。

「name、少し、お眠りなさい」

「…うん…」

蝉時雨、抜けるような青い空。私はあの時伸ばされた手を掴んだだろうか、拒んだだろうか。記憶はあまりにも遠かった。

「勝家、下がっていいですよ」

「…は。…失礼致します」

逃げてゆく熱。そうして、自分の手すら支えられずに、私の手は畳に落ちた。ひやりと、触れたのは光秀さまの白くて長い指。
障子は開けられたままだった。耳を澄ませば、勝家の袴が擦れる微かな音が聞こえる気がした。

「さあ、もう誰も来ませんから。安心してお休みなさい」

name。再び見上げた光秀さまの口が、はっきりと私の名を象る。
薄紫の靄が私を包む。そんな幻。
開いていた瞼を冷たい指先で降ろされる。目の前には、太陽を孕んだ眩しい暗闇が広がっていた。
するすると耳に入るは呪詛か、はたまた童歌か。時折混じる微笑が、心地よかった。

「黄泉路までは遠かれど、ふふ…」

うらうらと小春日和。薫風は未だ感ぜず。しかして私の耳にはさっき確かに、ざわわと靡く青草の葉音が聞こえたのだ。
触れ合った、指先の柔らかさも…。
眠りの淵から身を投げた私は、緩やかな直下の最中で思い出す。
けれど、もう。

【死に際にかおりたつ】
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