2015

財布と携帯電話だけを持って家を飛び出した。
走って走って、最寄りの駅までたどり着いたころにはもう夕暮れだった。飛び乗った電車。くたびれたサラリーマンや生きるエネルギーを発散せずにはいられない高校生たちに囲まれて、場違いな私はがたごとと電車に揺られる。ふと顔を上げれば、向かいの窓ガラスに自分が映っていた。夕暮れの空に浮かび上がるのは、マフラーに半分顔が隠れ、そこからは鬼気迫るような目を覗かせている私の姿だった。
たったひと月会っていないだけだった。さっきだって、いつも通り携帯でやりとりをしていたのだ。でもその無機質な文字の羅列が私にはどうしても我慢出来なかったのだ。気が付けば部屋の酸素は薄くなり、私は苦しさに胸を押さえて床に蹲っていた。
会いたい。
今すぐに三成に触れたかった。そうして、死にかけた私の心と細胞に、息吹を吹き込んで欲しかった。
手袋をしてくればよかったと思った。冷たくなった白い指先をポケットに突っ込む。急いでいたせいでミュージックプレイヤーも本も持ってこなかった。いつもは音楽で蓋をされている世界。本来そこにある正しい音が私の身体に流れ込む。それでいいと思った。正しくありたい。正しくある自分で、私は三成に会いたかった。
寂れた踏切を、電車が越える。
三成はきっと怒るだろう。何故こんな時間に来たのだ。来るなら事前に連絡しろ。ひとりで遅くに出歩くな。自分の不摂生を棚に上げて、三成はいつも私にお説教をする。
いつの間にかうたた寝をしていた。きっと、効きすぎた車内の暖房の所せいだ。鼻を啜って、居住まいを正す。窓の外はもうしっかりと夜の空だった。濃紺の車窓の所々に民家の明かりが灯る。
あのひとつひとつに人がいるのかと思うと、無性に私は泣きたくなった。私のいない場所で日々を過ごす三成を想って。あの白い指先が、電気のスイッチをパチン、と押すのだ。白々しい蛍光灯の下で、猫背気味に机に向かう三成。三成。みつなり。会いたいよ。
マフラーの下であくびをすれば、目的の駅に電車がゆっくりと滑り込む。時間が時間なだけに、人はまばらだった。気怠いアナウンスですら、今は私を迎えてくれる心強い味方だ。乾いた音と共にドアが開き、私は勢いよく立ち上がってホームへと降りる。思ったよりも風はなくて、でもやはり寒かった。
そこから電車を乗り換えて五駅目。なんとか乗り込んだ終電で、ようやく私は目的地に着いた。見慣れた街、見慣れた風景。地元から少し離れた大学に進学した私は、実家を出て一人暮らしをしていた。そこから近くもなく、かといって遠いというほど遠くもないこの場所で、私と三成は共に育った。
大通りから一本入った路地は、雨が降ったわけでも無いのに濡れたアスファルトの匂いが足元にひっそりと沈殿している。通行人どころか、野良猫すらもいなかった。
三成はお兄さんが結婚して実家に戻ったのを機に、近くのアパートを借りて一人暮らしをしていた。まぁ、三成くんも大変ね。と私の母が言っていたのを思い出す。一人暮らしといっても実家の近くだからなに不自由することもないし、一国一城の主だねと言った私に三成は満更でもない顔をしていたから、やはり彼は彼なりに思うところがあったのだろう。
ひっそりとした道をゆく。夕方に漂う懐かしい煮物の匂いも、お風呂に灯る明かりもすっかり消えてしまった遅い時間。雨戸が降ろされた家々は黙り込み、点在する丘のような山はこんもりと黒く膨張して見える。
私は未だに三成のアパート名を覚えられずにいる。場所はこんなにもわかりやすいのに。やたらと横文字の並ぶお洒落ぶった名前は余りにも三成にそぐわなくて、アパートの前に立つたびに私はにやにやと笑ってしまうのだった。
行く、と事前に連絡はしなかった。会いたいと思って家を飛び出してから数時間。メッセージのやりとリを途中で終わらせてしまったから、私はもう寝たものと思っているに違いない。三成は居るだろうか。かんかんと足音が通路に響く。三成の部屋の前。明かりはついていた。チャイムを押す指先が、かじかんで少し震えた。
ピンポン。おもちゃみたいな音。廊下を歩いてくる音がドアの向こうからかすかに聞こえてきた。私は全身の神経を研ぎ澄まして三成の気配を探る。かちゃり。鍵が開けられる。

「三成、」

会いに来ちゃった。
そう続けたかったのに、私は急に声の出し方が分からなくなってしまって、困ったように三成を見る。
三成は、やっぱり怒ったように、ほんの少し眉間に皺を寄せていた。ああ、三成だ。視線を下げると、冬なのに素足のままの彼の足が目に入る。骨ばった足の甲から、可哀想なぐらいに細くて、不思議なほど不安定な長さの指が五本ずつ。綺麗に切りそろえられた爪が、その先っぽで寒さに震えるみたいにして張り付いていた。
開かれたドアからわあっと溢れてきた三成のすべて(香りだとか、生活感だとか、部屋のあたたかさだとか)に私は安堵する。何も言えずに立っている私の手を三成が引く。すぽんと、私は三成の腕の中に収まった。

「言いたいことは沢山ある。が、まずは部屋に入れ」

あたたかい三成の身体を、私の身体に浸透した夜の冷気で冷やしてしまうのが忍びなくて。こくりと小さく頷けば三成は私から身体を離し、私の手を取って後ろ手に扉を閉めた。
相変わらず物の少ない三成の部屋。壁際に寄せられたベッドの上にふたり並んで腰掛ける。何から話せばいいのか分からなくて三成を見た。三成の目が、じいっと私を見ていた。

「会いたくて、」

絞り出すように口にした。

「わかっている」

わかっていたらしい。投げ出された私の手を、三成が掴む。

「何故こんな時間に来るのだ。連絡も寄越さずしかもそんな……」

碌な防寒もせずに、と私の冷たく赤い耳と鼻の先に視線をやって言う。

「会いたくて、だから」

「だから、なんだ」

「来ちゃったの」

そうとしか、言えなくて。
もうどうしようもなく三成に会いたくて、会わずにいたら身体がバラバラになってしまうんじゃないかと思うぐらいもどかしくて、悲しかったから。だから来ちゃったの。
そう伝えたかった。でもやっぱり声は上手く出てこなかった。きっと私は今、おなかがぺこぺこの犬みたいな目をしている。
そうして、真っ直ぐな三成の目を見ていたら、ふいに視界が翳ってそして、私は三成の腕の中だった。あたたかくて、とても息がしやすい。

「せめて連絡ぐらいはしろ。駅まで迎えに行ったものを」

耳元で唸るように言った三成の声もまた切実で。鎖骨の窪みに私は頬を押し付けた。会いたかった気持ちでその窪みを埋めるように、ぎゅっと。
三成といると、正しい時間が私の周りを流れてゆく。過不足ない時の流れは、私を正しい生き物にしてくれる。
長い指に髪を梳かれて、そして額にキスをされた。薄い三成の背中に腕を回す。ルームウェア越しに、ごつごつとした肩甲骨の出っ張りに触れた。夜の冷えた空気のおかげでなんとか形を保っていた感情が、溶け落ちて流れ出す。子供みたいに額を擦りつけて、私は会いたかった気持ちをひたすら三成にぶつけた。
コーヒーの香りが少しする部屋の中。時計は深夜零時を少し回っていた。シャワーを浴びて、三成の服を借りた。そういうことをするような雰囲気ではなかったけれど、三成の身体が苦しそうなことになっていたので、そうなった。その兆しを私が見つけてしまった時、三成は少し恥ずかしそうに目を伏せた。揺れるまつげが頬に影を落として、それを私は素敵に思う。
失った時間を埋め合わせるような、あるべきものが在るべき場所に収まったことを確認し合うような性交だった。
そうしてすべてが終わるとまたシャワーを浴びた。コーヒーを入れたマグカップを差し出してくれた三成の手の甲が所々あかぎれていて、私はきょろきょろと部屋を見回す。棚の上に置いてある、青色の平べったい丸い缶。それは私が三成に買ってあげたものだった。蓋を開ければ、きちんと使っているのか、ひと月分きちんと目減りした白色のクリームがふわりと優しく香った。たっぷりと指先に取って、三成の手の甲にそれを塗り込んでゆく。その間、三成はおとなしく私の手の動きを目で追っていた。右手の次は左手。同様に掬ったクリームを塗る。飽きたのか、三成は私の顔をじいっと見ていた。

「よし、オッケー」

いつの間にか私は声を取り戻し、話し方も思い出していた。三成は蛍光灯に手を翳して、何かを検分するみたいに私にクリームを塗られてかてかになった手の甲を眺めと、ふん、と鼻を鳴らして(この場合は、まぁいいだろう、的な肯定の意味のそれである)ひらひらと両手を振った。
ふたりでゆっくりコーヒーを飲み終え、ふたりで並んで歯を磨く。この洗面所はひとりだと少し広くて、ふたりだと結構狭いのだ。こういう時に一人暮らしは便利だと思う。お互いの家にお互いのものを置いておけるから。私がいない時に、三成はどんな思いで私の歯ブラシを見るのだろう。胸の奥がぎゅっとなって鏡越しに彼を見れば、その中で三成と目が合った。
何もかもを終えてベッドに入ったのは26時も過ぎようとしていた頃だった。明日は土曜日だから、何時だって構わない。けれど、流石に眠たかった。ふあ、と欠伸をすると、身体の下に三成の腕が滑り込んできて、胸の中で抱き締められた。その二の腕を枕みたいにして、私は三成を見上げる。三成も同じようにして私を見ていた。

「三成」

「なんだ」

「会いたかったよ」

「貴様はそれしか言えんのか」

うん、と首を縦に振った私に三成は長く長く息を吐く。

「まあ、いい」

私もだ。夜の静寂によく似合う声で、三成は独り言みたいにして呟いた。もう一度頷く代わりに、私は三成の背中に腕を回して抱き締めた。薄い、でも綺麗に筋肉が付いた三成の背中。
ベッドの中は幸せなぬくもりが満ちていて、ああ、私はいまひとりじゃないんだとしみじみ思った。冷たい足先を三成が絡め取ってくれるけれど、やっぱりその足先も冷たくて、私はくすくす腕の中で笑う。

「早く寝ろ、もう遅い」

三成は言う。数時間前の寒いぐらいだった心細さはもうどこにもなくて、ただ、大好きな三成を全身に感じられる喜びだけが私の中を満たしていた。骨の髄まで満ち満ちた幸福はやがて私にあまい眠りをもたらす。もう少し、三成の顔を見ていたいけど、うん、やっぱり今日は頑張りすぎたかな。

「……おやすみ、三成」

「ああ」

また明日、そう言える喜び。明日の朝目覚めた時に、三成が隣にいるということ。世界でいちばん安全な場所にいるような気持ちにさせてくれる三成の腕の中で、私はとろとろと眠りの中に落ちてゆく。

【幸せに忠実に】
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