2015

久々に、屋敷でゆっくり出来る時間が取れるのだと、長秀さまは昨晩言っていた。各地を転々とする戦の日々が続き、共に過ごす時間などほぼ無いに等しかったこの頃。寂しい心を抱えつつ、それでもこうして彼が無事に帰り安堵する度、恋しい思いが増々募るのだった。本当ならば、今日は一日屋敷で過ごす筈だった。けれどいつも屋敷の中で手習いばかりでは倦んでしまうであろうからと、兼ねてからの私の願いを聞いてくれた長秀さま。お疲れでしょうからまた今度にでも、と言って眠りについた私を今朝そっと起こしてくれたかと思えば、「ゆくぞ」とだけ言い抱き起こす。まだ半ば夢の中にいた私の元に次女達を呼びつけ、あれやこれやと準備をさせて、漸く屋敷を後にした頃には太陽がすっかり登りきった頃だった。

そうして、町に出てみたいという私の我儘を聞いてくださった長秀さまに手を取られ、賑々しく人の行き交う岐阜城下の往来を行く。初めの内は恐る恐る被衣越しに景色を見ていたけれど、あまりに視界が色取り取りで、私はいつの間にか単衣を小脇に抱え歩いているのだった。
雑踏は土埃が舞い、人々は活気で賑わっていた。京の都に行ってみたいと言った私に、長秀さまはいつも、京よりも岐阜城下の方がよっぽど賑わっていると言うのであった。流石、信長さまが治めていらっしゃるだけのことはある。
けれど私は京への憧れをどうしても捨てきれず、長秀さまが京から帰る度に土産話をねだるのだった。
売り物の魚を盗る猫、どこからやってきたのか人の足を縫うようにして走る鶏。静かな屋敷の奥とは何もかもが違い、賑やかだった。
新鮮な光景に目移りする私はついつい歩みが遅くなる。そんな私の手を文句の一つも言わずに引いてくれる長秀さま。彼の手を、意識してしまうと恥ずかしくなってしまうから、だから私は軒を連ねる店々に視線を向ける。
魚を売る店、野菜を売る店、見たこともないようなものが笊に載せられ、それを手にする人々。何もかもが目新しく、感嘆の声を漏らしつつ岐阜の城下を下ってゆく。
ふと、目を引く店があった。並べられた櫛の数々はパッと見ただけでも柘植や竹、べっ甲などのほかに螺鈿を張り付けたもの等様々な種類が揃えられている。足を止めて店を眺めていると、長秀さまは私の顔を覗き込む。

「欲しいのか」

「い、…いえ。ただ…色んな種類の櫛があるのだなぁと思って…」

「そうか…」

その時、向かいの小路から「丹羽さまー!」と呼ぶ声が聞こえてきた。隣で長秀さまが小さく会釈をする。どうやら馴染の商人らしかった。大きく手招きをしている彼と私とを交互に見て、長秀さまは逡巡する。どうやら私のことが気がかりらしい。

「ここで待っておりますから」

「…決して動くでないぞ」

よいな?そう念を押して長秀さまは人の波をかき分けて彼の元へと向かっていった。本当に、芋を洗うような賑わいだった。自分のいる屋敷は二の丸にもほど近いため城下の喧騒など聞こえてきたためしがない。こんなにも賑やかな場所であったとは。通り過ぎる人々は老若男女ひきこもごもの出で立ちだった。
砂煙が少し煙たくて、袖で顔を隠していると、先ほどの櫛屋が声を張り上げ商いを始めた。京で人気の櫛だよ。螺鈿の細工がこと繊細で…。いいように吸い寄せられた私の手に、櫛屋は鼈甲の櫛をひとつ乗せる。

「どうです?都でも人気の鼈甲ですよ。今日はお安くしておきますが」

「…あの、えっと…私は…」

どうしよう、見ていただけなのに。焦った私は長秀さまの姿を探して辺りを見回す。けれど一面の人だかりに隠れているのか、長秀さまの姿はどこにも見当たらない。お金も持っていないし…。何と断ればよいのだろう…。こんなことになるのなら、侍女の一人でも連れてくればよかったと途方に暮れたその時だった。ぽん、と後ろから肩を叩かれる。長秀さま?そう思い振り向いたけれど、そこにいたのは見知らぬ二人の男たちだった。

「買って差し上げましょうか?」

「その代わりと言っちゃなんだが、付き合ってはもらえませんかね」

馴れ馴れしく肩に手を掛けられる。何か言わねば、そう思うのに、初めての出来事に恐怖のあまり喉が張り付き声が出ない。

「おい、幾らだこの櫛」

「へ、へぇ…おひとつ…、」

ざわめきが遠のいてゆく。長秀さま、長秀さま。いつの間にか肩を抱き寄せられていた。こんな乱暴な体温を私は知らない。逃げなければ。けれど竦んだ足は縫い付けられたかのように地面に張り付いて、一歩たりとも動けなかった。怖くて、私は目を瞑る。我儘など言わずに屋敷にいればよかったのだ。これからどうなってしまうのだろう。攫われ、辱めを受けるのだろうか。鼻の奥がつん、と痛んだ。長秀さま。あの優しい手の温もりを必死に思い出す。

「っは、放して…」

ください…。口から出た言葉は北風に震える枯れ枝のよりも頼りなかった。騒めきに消えかけた私の言葉に、二人の男は顔を見合わせ下品に笑う。「おぼこいのう」そんな言葉が聞こえた気がした。ああ、もう…。震えた瞼の隙間から、ぽとりと涙がこぼれた。悟られたくなくて、私は俯き袂で顔を覆う。消えてしまいたいとさえ、思った。

「なにをしておる」

「なんじゃ貴様はぁ」

背後から聞こえた長秀さまの声に、私は勢いよく面を上げた。背が低い方の男が、長秀さまを睨みつけていた。表情を変えず男と対峙している長秀さまは、私の肩に乗せられたもう一人の男の腕に冷眼を向け、「その腕を退けよ」と静かに言った。不思議なぐらいに、よく通る声だった。

「おい、行くぞ…」

何かに気が付いたのか、私の肩を抱いていた男はその腕を離すと、もう一人を小突き足早に去ってゆく。
助かったのだ、と分かった瞬間、ぼろぼろと涙が両の目から溢れ出す。泣きながら棒立ちになっている私に、長秀さまの腕が触れた。そうだ、この、控えめなあたたかさ。安堵のあまり、膝の力が抜けて前のめりになった。それを支えてくれた長秀さまは、自分で立つこともままならない私をなんと横抱きにするのだった。

「なっ、長秀さま?!」

「黙っておれ」

「恥ずかしゅうございます…皆が見ております故…!」

暴れるわけにもいかず、かといって周囲から注がれる好奇の視線にも耐えられず、顔が燃えるように熱くなる。

「こうでもしておかねば、そなたがどこぞの男に拐かされるとも知れぬからな」

「……」

眉を顰めた長秀さまに見下ろされ、私は口を噤むのだった。人の波は自然と私たちを避けるために割れ、穴があったら入りたいような気持ちであったけれど、とにかく落ちぬようにと長秀さまの首に必死になってしがみ付く。顔を胸元に埋めつつ、ちらりと彼の表情を盗み見たけれど、やはりそこにはいつもと変わらぬ表情をした長秀さまがいるのであった。すたすたと、なんの迷いもなく歩く長秀さま。屋敷まで辿り着く間に一生分の人の視線を浴びた気がして、漸く見慣れた門が現れたころには歩いたわけでもないのに息も絶え絶えなのだった。

「もう大丈夫にございます…どうか、降ろしてくださりませ…」

「降ろさぬ」

「……」

主の帰宅にばたつく屋敷内。私を抱えたまま草履を脱ぎ捨てた長秀さまの周りを右往左往する侍女たちに、私は何と声をかけていいのかわからなかった。
腕の中で小さくなっている私に代わって、長秀さまはおろおろとする数人の侍女達を下がらせる。主人の珍しい行動にやはり彼女達も興味があるのか、柱の陰からなんとなく視線を感じつつ、私は部屋へと運ばれていった。
そうして何とか辿り着いた自室で、私は長秀さまの股座に抱かれたまま静かなお説教を受けるのだった。
「何故すぐに呼ばなかったのだ」「勝手にうろついてはならぬと言ったはず」珍しく言葉を尽くして私に向かう長秀さまのお顔を眺めながら、ぬくぬくとした腕の中で私は瞬きをした。

「聞いておるのか、name」

「…聞いております…」

顔を覗き込まれて絡まる視線。目を細めた長秀さまは、私の頭をそっと撫でる。

「…やはりそなたは、こうして閉じ込めておくが一番ぞ」

耳打ちするように囁いた長秀さまのお声に、仄かに背中が粟立った。ふ、と私の顔を影が覆う。唇に触れた感覚に頬を染め、彼の小袖の端をぎゅっと掴んだ。閉じ込められたいと、願う自分。やはり自分の居るべき場所はここなのだと、改めて私は思い知るのであった。

【一人で歩けるわけでもないのに】
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