2014

「それでは気を付けて行って来るんだよ」

「はっ!」

「はーい!」

笑顔で手を振る半兵衛に恭しく膝を着く佐吉と、満面の笑みを浮かべ片手を頭上に高々と挙げるname。秋晴れの空の下、二人は城を後にした。

事の発端は半兵衛がお使いを佐吉に頼んだことから始まった。それ程重要ではない書簡故、何かと忙しい半兵衛は身動きが出来ずそれならば佐吉にと言付けたのだった。それを障子の影から聞いていたnameは、ずるいずるい佐吉ばっかり半兵衛さまにお使い頼まれて、と騒ぎ駄々をこね、挙げ句の果てに閑所に立て篭もるという事態に発展した為二人連れ立って行くことになったのだ。そもそも始めから佐吉が彼女の同伴を認めればよかったのだが、人一倍責任感が強く負けん気な彼は、初めて半兵衛様に頼まれた一人での使いなのだからと意固地になり頑としてnameの願いを聞き入れなかった。最終的にnameを不憫に思った半兵衛が佐吉に頼み込むという形で収まったものの、佐吉の不機嫌は出立するその日まで続いたのだった。
仲が悪いわけではないのだが、奔放すぎるnameに生真面目な佐吉が痺れを切らして喧嘩が始まるのが常なのだ。蓋を開けてみれば佐吉が感情を露わにして付き合うことのできる数少ない人間の一人がnameということに、果たして彼が気づいているのか。であるからして、時折彼女から香る甘い薫りに自分がどぎまぎする理由が何であるのかを佐吉はまだ知る由もない。
かくして長浜から旧浅井領に向かう二人はたわわに実った黄金色の田圃の畦道を進み、芒が白銀に揺れる野原を行く。明け五つに城を出てから二刻程歩いた頃、そろそろ腹を空かせたnameは少し先を行く佐吉の着物の袖を掴む。

「佐吉、そろそろ休憩しようよ」

「たったこれだけしか歩かずに休憩などとふざけたことを。だから私は貴様を連れてきたくはなかったのだ!」

「お腹減ったんだもん」

「ならば歩きながら食え」

「やだよお行儀悪い。半兵衛様に知られたら怒られちゃうよ」

「ぐ、……」

先を急ぎたい佐吉も半兵衛の名を出されては流石に黙り込むしかなかった。街道沿いに立つ大木の木陰に二人は仲良く腰を下ろし、各々背負っていた風呂敷から笹の葉に包まれた握り飯を取り出した。昔馴染みである為、佐吉にどれだけ邪険に扱われようともnameは子犬のように佐吉佐吉と彼に付きまとう。一方的な友情と愛情を鬱陶しく思いながらも、佐吉も控えめながら彼女に好意を抱いているのだった。表情の乏しさ故に彼の心中を知る者は、恐らく半兵衛ぐらいであろう。
昼下がりの日差しを遮る木陰には爽やかな風が吹き渡る。風に靡く琵琶湖の湖面のように、収穫間近の稲がざわわ、ざわわと音を立ててそよいでいた。両手で持った握り飯をぱくつくnameは早にも二つを食べ終わり、やっと一つ目を食べおわろうとしている佐吉の手元に視線を送る。

「やらんぞ」

「沢庵だけでも……?」

「当たり前だ!」

「ケチ!」

「自分の分は既に食したのだろう!それをケチと言うとは、少しは慎みを持て」

「佐吉くん、沢庵いただけますかしら」

「貴様ァ……!そもそも口の端に米粒などつけて!半兵衛様がご覧になったらお嘆きになられるぞ」

nameは半兵衛に仕えている。何故このように間の抜けた役立たずが半兵衛様のお側に置いておいてもらえるのか佐吉には不思議で仕方がなかったのだが、半兵衛は半兵衛なりにnameを溺愛しているのだった。後々nameも佐吉と共に豊臣の一角を担う人間になったことを思えば、彼女の隠れた才気を早々に見抜いていた半兵衛はやはり流石と言えよう。
頬についた米粒を探そうとして中々見つけられないnameに痺れを切らした佐吉は、こめかみに青筋を立てながら目にも留まらぬ速さで米粒を摘まむとそれをそのままnameの口に捻じ込んだ。「一粒でも美味しいね」などと呑気な笑みを浮かべるnameにがっくりと肩を落とす佐吉の口からは、自然と溜息がこぼれるのであった。
食の細い佐吉は結局沢庵をnameに分けてやり(あまりにも哀れを誘う顔をしていたので握り飯も一口たべさせてやった)、竹筒に入れた水を飲み喉を潤すと、早々に立ち上がる。尻を払いまだ腰を下ろしたままのnameを叱咤し腕を掴んで立たせてやると、ぴんと前を向いて歩き出す。なんだかんだでのんびりとした性格をしたnameの世話を焼く佐吉は、握った彼女の腕の細さと自分よりもずっと高い体温に胸が微かに高鳴り思わずnameの手を離してずんずんと一人で先を行ってしまう。

「速いよ、待ってってば」

「己の足の短さを呪え」

「ひどい!」

ほとんど駆けっこのようになりながら二人は目的地へと向かうのだった。
滞りなく書簡を届け、既に日が傾き出した道を行く二人の影が長く伸びていた。

「だいぶ遅くなっちゃったね」

「仕方ないだろう。貴様の足が短く。先方の話は長かったのだから」

「はぁ、夕餉に間に合うかなぁ」

「また食べ物の話か」

呆れる佐吉を他所に、nameは使い先で駄賃代わりに持たされた饅頭を頬張っている。棚引く雲すら茜色に染め上げた夕焼け空に包まれて、二人は帰路を急ぐ。吹く風は次第に冷たさを増し、列を成して巣へ帰る烏の群れがあげる声にほんの少しの心細さを感じるが、互いにそれは口にしない。千切った芒を手にして振り回しながら鼻歌を歌うnameを背後に、佐吉はまだ子供っぽい拳をぎゅっと握る。半兵衛様は心配しておられないだろうか。遅くなった帰城に失望されないだろうか。茜色に照らされた佐吉の白い頬が微かに強張る。そんな彼の様子などつゆ知らず、nameは道端の小石を蹴り蹴り佐吉の後をついて行くのだった。
城まであと一町程という頃には既に日は沈み、完全に辺りは夜の気配に包まれていた。冷たく密やかな気配に押しやられ、nameの先程までの元気は何処へやら。気を抜くとどんどん開いてしまう佐吉との距離を懸命に詰めていたせいか、nameの小さな足は砂埃に汚れ、長の距離を歩いた為に浮腫み、草鞋の紐が食い込んでいた。今にも潰れて皮がめくれてしまいそうな肉刺を騙し騙し歩いてきたけれど、何処かで野良犬が鳴いたのを聞いてしまうとnameの目からは堪えていた涙がとうとう零れてしまうのだった。しかし佐吉に気がつかれてしまえば意気地無しとまたからかわれるに違いない。足手まといだと思われたくない一心でnameは桜色の唇をぎゅっと噛み締めた。一度流れてしまうと止めようがないのが涙なのであって。拭いては流れ拭いては流れする温い雫をnameは伸ばした小袖の裾でこすり、声にならない嗚咽を時折漏らした。先をゆく佐吉はまさかnameがないているなどとは思いもよらず、ただひたすらに前へ進む事しか頭にないのだった。しかしふと、背後にnameの気配を感じないことに気がつき慌てて佐吉は振り返る。つい先程までは半歩後ろを歩いていたはずのnameは今や遥か彼方で小さくなっているのである。一体どうしたのかと怪訝に思いながら立ち止まりしばらくの間待ってみるも、彼方にあるnameの姿は中々大きくならない。痺れを切らした佐吉はずんずんと肩を怒らせながらnameの元へと向かって歩く。後少しで城だというのに何をやっているのだと、こみ上げて来る怒りを爆発させようとしたその時、ふと彼女の様子がおかしいことに彼は気がついた。のろのろと歩く足取りはおぼつかず、右足を引きずるようにして辛うじて前に進むnameの両の目からはボロボロと涙が零れているではないか。ギョッとした佐吉は何かを怒鳴ろうとしたけれど、ボロ布の方がまだましと思えるようなnameの姿を前に何も言えなくなってしまった。

「おい」

「……い、…ん」

「聞こえないぞ」

「泣いてないもん」

「……」

泣き顔を見られまいとnameが俯くと、地面にぱたぱたと涙が落ちた。前髪は顔に張り付き、視線を下ろせば白かったはずの足袋は砂に汚れ、とうとう肉刺が潰れてしまったのか先の方がじんわりと赤色に染まっていた。佐吉はnameを、こんなことになるまで何故放っておいたと責めようとしたけれど、自分にも思い当たる節があることに気が付いた。どれ程身体が痛もうとも、どれ程熱が出ようとも、豊臣の、秀吉様の御為にと身体に鞭打ち鍛錬と勉学の日々を過ごしてきた自分の姿が脳裏をよぎる。
今にもその場にしゃがみ込んでしまいそうなnameに背を向けて佐吉は屈みこむと無言で両手を開く。しかし一向にnameが背中に乗る様子はなく、佐吉はついに声を荒げた。

「乗るなら乗れ!でなければ置いて行くぞ!」

こんな刻限になってしまった焦りもあった。いつまでも背後でぐずぐずと鼻を啜っているnameへの苛立ちもあった。そんな彼女に気がつくことができなかった己への呵責もあった。踏みしめた足元の砂が、ざり、と、鳴る。

「じ、自分でっ、歩く、っ」

「そのような足で歩けるものか」

血が滲み汚れた足袋は、幼い佐吉の目にも痛々しく映る。

「はんべしゃまに、約束したんだもっ、……。ちゃんと行って帰って来るって、っう……だから、だから、」

「name……」

「佐吉の、足手まといに、ならないって、」

「もういい」

「っう……ぇ、」

「乗れ」

「や、」

「name」

屈んでいた佐吉は立ち上がると、俯き涙しているnameの頭を不器用に撫でる。彼の突然の行動に驚いて面をあげたnameの視線から逃れるようにしてそっぽを向く佐吉は、きつく彼女の足に食い込んでいる草鞋の縄を解くとそれを脱がせてやり、涙で湿ったnameの手に握らせた。きょとんとしてされるがままになっているnameに佐吉は再び背中を向けてしゃがんでやる。

「これ以上遅くなっては半兵衛様に申し訳が立たん。問答は無用だ」

「……」

真一文字に結んでいた唇を少し緩めたnameはおずおずと佐吉の背中におぶさった。上背は佐吉の方が少し高いだけであるがやはり力の差は歴然で、彼は軽々と背中のnameを持ち上げると迷いなく一歩を踏み出した。
佐吉の歩調に合わせて脚を揺らしながらnameは夜空を仰ぐ。山の端に僅かに雲がかかっているだけで、二人の頭上には満月とさんざめくような幾千もの星々が濃紺の空に煌めいていた。

「佐吉、今お星さまが流れた!」

「気楽なものだな」

「あ、でも願い事するの忘れちゃった」

「ふん、どうせ貴様の願い事など腹一杯饅頭を食えるようにだのの類だろう。……くだらん」

「違うよ!」

頬を膨らませたnameは掴んだ佐吉の肩を揺らす。それでは一体なんなのだ、と尋ねた佐吉に、nameはそれはね、と口を開いた。

「ずっと佐吉と一緒にいられますように、って」

「……な、」

あっけらかんと言い放たれたnameの言葉に思わず佐吉は足を止めた。彼女の言葉に他意があろうとなかろうと、年頃の女子が男子に言うにしては含蓄あまりある言葉である。思わず背中のnameを取り落としそうになり、ずり落ちかけたnameは慌てて佐吉にしがみつく。

「落ちちゃうよ!」

「ば、馬鹿か貴様は!」

何を、何を言っているのだ。胸の内で絡まって熱くなった感情を処理する術などまだ知らない佐吉は、顔を赤くしてnameを背負い直すと大股で歩き出した。

「佐吉、ありがと」

耳元で柔らかく響いたnameの言葉に、佐吉はその幼い眉間に皺を寄せることしか出来なかった。それでも、彼女の言葉は彼の身体の中でいつまでもいつまでも暖かく消えない熱を放っているのだった。
ほぅほぅと何処かで梟が鳴いていた。秋の虫が騒がしい程に羽を震わせている。ふと顔を上げれば、もうすぐそこに城が見えていた。やっと着いた。強がっていたものの、やはり夜道を二人で行くにはまだ少し幼い佐吉の顔に安堵の表情が浮かぶ。

「おい、もうすぐだぞ」

「……」

「……おい、name?」

呼びかけても返事のないnameを不思議に思い佐吉は首だけで背後を見る。するとそこには寝息を立てるnameの姿があった。人におぶってもらいながら自分が寝るとはいい度胸ではないかと奥歯を噛み締める佐吉は、それでも無理にnameを起こそうとはしなかった。いつもならば何事も直ぐに音をあげてしまうnameが、まさか唇が切れる程我慢をして歩き続けたなど佐吉にも俄かに信じ難いことであり、同時に彼女を見直していたのだ。
はぁ、と溜息をついて、彼自身も疲れ果てた足をなんとか動かし再び歩き出した。

松明が煌々と焚かれた大手門の前には秀吉を隣にした半兵衛が落ち着かない様子で立っていた。時折組んだ腕を指で叩いたり、その場で足踏みをしたりと相当な待ち侘びぶりを見せる半兵衛を秀吉は過保護も行き過ぎると困ったものよと思いつつ、彼もまた予定よりも大分遅れている二人の帰城を心配しているのだった。

「遅いね……」

「ああ、しかしそこまでの心配には及ばぬのではないか?佐吉もnameももう使いぐらいできる年なのだ」

「そうだけど……。僕は馬を出して少し先を見に行ってくる。秀吉はここでもう少し待っていてくれないか」

「構わぬ」

仕方なし、友の為よ。秀吉は踵を返そうとする半兵衛から視線を前方に移す。するとなだらかな坂の向こうから見慣れた銀の髪がちょこんと覗き、それは徐々に此方へ近づいてくる。

「半兵衛、見えたぞ」

「あ!」

急ぎ足で走り出そうとしていた半兵衛の肩を掴み秀吉は前を指差す。半兵衛は安堵の色を顔に滲ませた。

「あれ?nameの姿が見えないようだけど……」

一転、彼の表情が一気に陰る。目を眇めた秀吉が小さく笑うのを半兵衛はどうしたのだろうかと仰げば、秀吉は「よく見てみろ」と言って口の端を緩めた。段々と大きくなる佐吉の背後からは首をぐらぐらと揺らしながら背負われているnameの顔が覗いていた。
息を荒げながら、片足を引き摺り気味に歩く佐吉が松明の下に立つ半兵衛と秀吉に気が付いた。走り寄って遅参を詫びたかったが、今の彼にはもうその体力も残ってはいなかった。nameを背負い此処まで歩いてこれただけでも十分称賛に値するだろう。

「佐吉、おかえり」

「無事で何よりだ」

「……半兵衛様、……秀吉様」

遅くなって申し訳ありませんでした。そう言ってnameを背中に乗せたまま膝をつこうとする佐吉を制して、半兵衛は彼の頭を優しく撫でた。

「偉かったね。大変だったろう」

佐吉の背中で寝息を立てているnameに視線をやって半兵衛は言う。半兵衛の手の大きさ、労いの言葉、秀吉直々の出迎え、どれをとっても佐吉には感無量の物々だった。やっと城に帰ってこれた安堵もあいまって、彼の鼻はうっすらと赤くなっていた。

「nameは僕がもらおう」

佐吉からnameを受け取ると、半兵衛はひょいと彼女を腕に抱く。途端に風通しが良くなった背中に残るnameの体温に、佐吉はほんの少し名残惜しさを感じた。そんな佐吉の僅かな感情の揺らぎを見つけた半兵衛は、小さな恋の行方を思って微笑ましい気持ちでいっぱいになるのだった。まだ暫くは僕のものだよ、と、一方で思うものの。

「さあ、戻ろう。夕餉の支度もさせてある」

「はっ!」

「なんなら佐吉も秀吉におぶってもらったらどうだい」

「おお、そうするか」

「めっ、滅相も御座いません!」

顔を真っ赤にして頭を振る佐吉の頭を秀吉の大きな手が撫でる。光栄の極みに、佐吉は気が触れてしまうのではないかと思う程だった。

「にしてもnameは起きぬな」

「よほど疲れたんだね」

「飯の匂いを嗅がせれば直ぐさま起きるかと……」

笑い声とともに川の字になった影が城の中へと消えてゆく。秋の風が心地いい夜、また星がひとつ、長く長く尾を引いて流れていった。
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