大きく槍を振り上げた忠勝の懐に素早く入り込んだnameは脇差を抜き、そのままその鋒を彼の喉元に突きつける。しかしあと僅かというところで彼女の腕は捩じり上げられ、上背のある忠勝によって軽々と持ち上げられてしまうのだった。
「放せ!」
「言われなくとも放す」
「あと少しだったのに…」
「ふん、どのあたりがあと少しだったのか教えてもらいたいわ」
掴まれた手首を押えながら呟いたnameを鼻で笑う忠勝は、ぎろりと睨まれ肩を竦めた。
女子のくせに何故武芸を磨くのか、男の忠勝にとっては甚だ疑問なのである。女子故、家督を継ぐわけでもなく彼女の働きが家の武功として取り上げられるわけでもないというのに、なぜそこまでして戦場に走るのか。
「私は兄さまのお役に立てればそれでよいのだ」いつだったか尋ねた時に、nameは淀みなくそう答えた。忠勝と同い年である榊原康政を兄に持つnameは、幼いころより兄の背を追い、奥ゆかしい女性の作法を学ぶよりも刀を握ることを好んでいた。見よう見まねで剣を奮い、兵法の書を兄の背後から覗き込むようにして読み、手習いも康政が書いたものをなぞるようにして文字を覚えた。徳川に仕えるようになってから、そんな彼女の姿を忠勝も度々見かけていたのであった。
同い年同志ということもあり、共に競い合うようにして鍛錬をしていた二人にnameが混じるのは時間の問題であった。女だからと手加減をしない忠勝と、男勝りな性格を面白く思う兄康政によって、nameの剣術の腕はめきめきと上達し、女である為一軍を任されるまではゆかぬものの康政の隊において重要な役割を果たすほどの武人に成長した。
地面に落ちた短刀を拾い上げながら、nameは「女子だからと馬鹿にするな」と吐き捨てた。兄とは違い頭に血が上りやすい性格はむしろ忠勝にそっくりだった。凛々しい眉の間に皺を刻み、手にした短刀の先を忠勝の鼻先目掛け、流れるような動作ですうっと上げる。彼はその手を掴み振り払った。多少の踏ん張りは感じたものの、やはり体格の差は歴然。よろめいたnameは悔しげに短刀から手を放す。からん、と乾いた音がして短刀は呆気なく地面に落ちた。
それを拾うこともせずnameは「顔を洗ってくる」と言って忠勝に背を向けた。
冷たい水が肌を刺す。所々ひび割れてしまった皮膚は空っ風に吹かれた童の頬のようにかさつき、痛々しく赤が浮いている。顔を洗ったはいいが手拭いがないことに気が付いて、nameは仕方なく犬のようにぶるぶると顔を振るった。
「冷たいわ!」
いつの間にか背後に立っていた忠勝が声を上げる。
「そんな所に立っているお前が悪いのだ」
「あぁ?手拭いを貸してやろうと思って来てみれば、余計な世話だったらしい」
「借りといてやる」
ふんと鼻を鳴らしたnameは、振り返りもせず忠勝から手拭いを奪い取るとごしごしと顔を拭いた。
そこに廊下の向こうからあははうふふと嫋やかな笑い声をあげながらこちらに向かってやってくる侍女達の一団があった。一段下がった庭に立つnameと忠勝に気が付いた彼女らは軽く一礼をすると「失礼致します」と歌うように口にして廊下をくだってゆく。小袖の袂を口に当て、含みのある目配せをしながら何かを囁き合っている侍女達。そんな彼女達から視線を逸らすとnameは手拭いを忠勝に無言で突き返し、足早にその場を去ろうとする。
「言い返さんのか」
すれ違いざまに忠勝はnameの腕を掴んで言う。俯いたnameは唇を噛んだ。榊原家の侍女のみならず、家康に仕える岡崎城の侍女たちですらもの珍しい女武将を好奇の目で見て、そして密やかに噂をし合っていた。「あれでは嫁にも行けませぬ」「夫となる殿方もさぞかし恐れ慄くことでしょう」、と。勿論噂は巡り巡って彼女の耳にも届いていた。だから何だ、と、言いたいものは言っておけ、と表向きはそう切り捨てるnameであったがしかし、年頃になるにつれ胸に誓った兄への思いと外聞との狭間で揺れていたのも事実であった。
だからこそ、言い返すことなどできないではないか。言葉を返せば認めたことになってしまう。
「放せ」
「放さん」
先ほどとは違い忠勝は手から力を緩めない。顔を上げたnameの刺すような視線にも、もう慣れた。兄譲りの切れ長の眼。しかしそこには康政とは違う、清流のような澄徹が見て取れた。掴まれた腕をnameが上げる。力尽くで振り払おうとするが、敵うはずもない。顔の高さに上げられた自分の手をnameは無言で眺めると口を開いた。
「このように荒れた手をした女子が、一体何を言い返せばいいのだ」
「……」
nameの目から視線を移した忠勝は彼女と同じようにその小さな手を見る。色こそ白いものの、刀を握る為nameの手は所々があかぎれ、手の平には肉刺ができていた。
「だから良いのだ。私は…」
ふ、と何かを諦めた時のような表情で唇を力無げに歪ませ、nameは自嘲的に笑う。
「わしはいいと思うが」
「は?」
「強い女子が」
「な、にを…言っておるのだ?」
鋭い目はそのままに忠勝は言う。その真意がわからずnameは口を半端に開いたまま彼の言葉の続きを待った。
「男も女も張り合のない奴は物足りんからな」
「……もういい、放せ」
俯いて肩を戦慄かせたnameは虫を払うような仕草で忠勝の手を払いのけた。
「帰る」
言うが早いがその場を走り去ったname。急に不機嫌になったnameの態度が腑に落ちない忠勝は、顎髭をちょいちょいと触りながら首を傾げた。
「おかしな奴じゃ…」
「おかしな奴はお主じゃ忠勝」
「うお?!」
小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべた康政が屋敷の陰から顔を覗かせていた。
「まぁ、お主にはわからんだろうなぁ」
「何がだ」
「女心」
「……何を言っておるのだ康政」
「いや何も」
「言いたいことがあるのならばはっきりと言え!」
「わしとてnameは大事な妹だからな。今の話は忘れろ」
「康政!おい!」
忠勝の肩を軽く叩くと、すたすたと歩き去ってゆく康政。その背中に忠勝は吼えた。
「わしの周りにいる兄妹はいったい何なのだ…どいつもこいつも…」
先ほどnameに貸した手拭いを握りしめたまま、忠勝はひとり呟いた。
「兄さま、忠勝が馬鹿すぎて話になりませぬ」
「馬鹿なのだから仕方なかろう、諦めろ。あとあいつだけはやめておけ」
「…や、やめるとは…何をです」
「わしはあやつの兄にだけはなりとうないからな」
「?!」
【強さの理由を知っているか】
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