2014

金ケ崎にて織田軍敗走との知らせが岐阜城に入ったのは、信長が無事退却し京に入った頃だった。その一報は城内を巡り、その日のうちに諸将の邸へと伝わった。
その所為か、ざわめきが覚めやらぬ岐阜城下は夜分遅くになっても灯りが灯る邸が多々あった。丹羽邸も例に漏れず篝火が焚かれ、使用人達が引っ切り無しに廊下を慌ただしく行き交っていた。
奥の間で侍女すらも下がらせたnameは、ひとり脇息に凭れ俯いていた。いつもならば床に就いている時間である。しかし昼間に入った報せに、食欲も無く、眠気すらも感じずにただ涙の塊のようなものが胸の内に詰まっているような気がして堪らないのだった。どうしよう、どうしよう。此処でこうして待つことしか為す術など無いというのに、ただ気持ちばかりが急くのだった。
青い月が濃紺の夜空にぽっかりと穴を開けている。「長秀さま」夫の名を呟けば、月光の雫のような涙がはらはらと頬を転がり落ちてゆく。
ご武運を、と見送りの際に寄せた頬は、彼の温もりをまだ覚えている。水無月だというのに珍しく肌寒い夜だった。nameは肩から落ちた打掛けの衿元を寄せ、見るとも無く月を眺める。居ても立っても居られない心持ちで腰を上げるも、やはりなにをすれば良いのかわからず(することは無いのだから当たり前なのであるが)再び腰を下ろすのだった。何度嘆息をしても胸に痞えた蟠りは消えてはくれない。もし自分が鳥であれたならば、今すぐにでも飛んで殿の元に参れるのに。叶いもしない想いを胸に、nameは涙を拭うことすらせず、其の儘畳に伏せるのだった。どうか、どうか御無事で。暗闇の中で伸ばした手が虚しく空をかく。夜明けを待ち遠しく思いながら、nameはひとりしゃくり上げた。

それから数日のこと、信長及び長秀を含む家臣達の無事を知らせる使いが早馬で岐阜に着いた。眠れぬ夜を過ごし、すっかり面やつれしてしまったnameはその報せに安堵のあまり気が遠くなる。ふらふらと倒れかけたnameは侍女に支えられ、自室に敷いた布団へと運ばれた。悪い知らせで無くて良かったと思うものの、この目で見る迄はという思いが拭いきれないname。
元来の心配性は、あの長秀すら心配するほどのものだった。ろくに食事も取らず、夜もほとんど眠れないnameは当然のことながら病人のような風貌になり、自分が留守の間は妻を頼むと長秀直々に言い使っている側近の侍女達は、自分達の女主のやつれようはもとより、殿にあれほど仰せつかっておきながらnameをこのような状態にしてしまったことを申し訳なく思っているのだった。長秀が声を荒げて叱りつける類の人間ではないだけに、彼の期待を裏切ることを心苦しく感じる彼女達である。自分の事は気にしなくていいとnameも重ね重ね侍女達に言うのであるけれど、主の健康管理も仕事の内なのだからそうもいかないのだった。
日は天頂に昇り、初夏の鮮やかな風が庭を抜けてゆく。濡れ縁に腰掛けたnameは、庭に舞い降りてきた小鳥が二羽、仲睦まじげに餌をつつき合ってる様を眺める。先刻いれられた茶は、手付かずのままぬるくなっていた。
生きているのならば、一刻も早くその姿を。柔らかな長秀の身体を思い出しながら、零れそうになる涙に唇を噛む。

「nameさま、nameさまっ!」

ばたばたと廊下をこちらに向かって走る侍女が上げた声にnameは振り返る。

「殿がお帰りになられましたっ!」

言うが早いがnameは立ち上がりぱたぱたと玄関口に向かって駆け出した。「nameさま、急がれては危のうございます!」追いかける声など最早彼女には聞こえていない。長秀さま、長秀さま、長秀さま。ぎゅっと目を瞑り角を曲がったnameは死角から現れた黒影にぶつかった。よろめいた足元に、侍女は悲鳴をあげ、控えの者達は危ない、とどよめいた。

「わしはあと何度、そなたに走るなと言えばよいのだろうな、name」

あわや、というところでnameを抱き留めたのはぶつかられた張本人である長秀だった。はっと顔を上げたnameの視線を受け止めて長秀はほんの少し眉を上げる。

「な、がひで…さま」

見慣れた顔と柔らかな香りに、nameの胸につかえていた思いが破裂し、勢い良くせり上がる。堰を失った急流の如くnameの目からは涙が溢れ出した。しゃくりあげることもせず、ただ長秀を見上げながら大粒の涙を零すnameの姿に、今日までの憔悴しきった彼女を見てきた侍女達も袂で目頭を押さえるのだった。
面やつれしたnameの頬に長秀が手を当てれば、ひっく、と大きく嗚咽する。

「お、っ、おかえり、なさ…っませ…」

「ああ」

nameがつっかえながらも皆まで言うのを待ち返事をすると、従者達を下がらせ妻の手を引き自室へと向かう。
昨晩の肌寒さは嘘のように晴れ渡った空からは色彩豊かな光が降り注いでいた。障子の開け放たれた部屋にも燦々と陽光が入り、い草の青い香りがふわりと漂う。ちち、とひと鳴きしたつがいの雀が飛び立った。
先に腰を下ろした長秀に促されるようにして彼の隣に座ったnameは、口を開くよりも先に長秀にしがみつく。抱きつくというより、もっとずっと子供染みた必死さで。胸元に頬を寄せるnameによってきつく掴まれた着物の袷の辺りには、幾筋も深い皺が寄っていた。
一回りほど小さくなってしまったような気がする妻の身体に腕を回す。やはり小さい。長秀は思った。先ほど久々に見たnameのやつれ具合と、転がるようにして自分の元へ駆けてきたあの懸命な表情。そして今腕の中にある控え目な熱を感じて、長秀は無事帰ることができて本当に良かった、と改めて思うのであった。

「name」

「はい」

nameが胸に顔を埋めたまま返事をした所為で、身体の内側から彼女の声が聞こえてくるような錯覚を覚える。

「変わりなかったか」

今度は返事の代わりに頭が小さく縦に振られた。艶艶としたnameの髪に指を差し入れゆっくりとかき上げながら、長秀は「そうか」と言った。庭の蹲を叩く鹿威しの乾いた音が、長閑に響く。
時折鼻を啜るnameの上下する肩を見つめながら、震える背中をゆるゆるとさすってやる。もっちりとした長秀の身体の中で唯一無骨さを感じさせる手は、それでもやはり筆をとっている方が似合いなのだった。
あたたかい。nameは涙が染み込んだ着物に顔を埋めながら、夕立の差中にいるような気持ちになる。この温もりに、会いたかった。背中を行き来する乾いた手を、感じたかった。澄んだ夏風のような声を、聞きたかった。思えば思うほど、涙が溢れて止まらない。
どれほど時が経っただろうか。相変わらずうらうらとした日差しに包まれて、長秀はnameを腕の中に収めたまま畳の上から動けずにいた。いつしか啜り泣きは静かな寝息に変わり、震えていた肩は穏やかに上下している。はて、どうしたものか。二三度目をしばたかせた長秀は思案する。喉が渇いたが人を呼ぼうにも声を上げてnameを起こすわけにもいかない。白い肌に浮いた隈は哀れを誘うほどだった。退却の知らせを受けた時のnameを思い、長秀は胸がちくりと痛む。ひとり物憂げな表情で床に伏せるnameは、どれだけ心細い思いをしていただろうか。艶やかな髪を撫でる手には、自然と慈しむような愛が滲み出る。
もぞ、と長秀が姿勢を変えれば、着物の衿を掴むnameの手がぴくりと動き、むずがる子供のように額が胸板にすりつけられる。

「…な…ま……ぬ、」

「?」

途切れ途切れに聞こえてきた妻の声に長秀が首を傾げていると、伏せていた顔をあげたnameは「離れませぬ」と今度ははっきりした口調で言うのだった。
泣いていた所為で目は兎のように赤く、ぽってりとした面持ちのname。彼女の瑞々しい唇がへの字に曲がるのを見て、長秀は僅かに目を見開く。

「nameは、長秀さまから、離れませぬ」

「……」

奥手な妻の発した珍しい言葉を胸の中で転がす長秀。無言のままの彼に、nameは気恥ずかしいのか耳朶まで赤く染めている。

「厠にも、着いてくるのか?」

「……っか?!」

そこまで深くは考えていなかったのだろう。何を想像したのかnameは更に顔を赤くして、「か、厠は、待っております」と蚊の鳴くような声で言うと、再び彼の懐で小さくなった。胴から回した手を長秀の背中で結び、まんじりともしないname。覗いた首筋すらほんのりと色付いているのを見つけ、長秀は彼女を腕の中に抱いたままごろりと畳に横になる。
「わ、」と小さく声を上げたnameの背中を、彼女がするのと同様に抱いて頭の上に顎を乗せる。

「長秀さま?」

「眠い」

そう言って大きく息を吸って吐いた胸の動きに合わせて微かに上下するnameの身体。それが何故だか愉快で、長秀は何度かわざと大仰な呼吸を繰り返す。戯れに気が付いたのか、nameもくすくすと喉を鳴らすようにして笑う。そして「私も、眠たくなって参りました」と言うのだった。

「ようやく笑ったな」

「…あ、」

はい、とnameははにかんだ。

「しばし眠る。そなたも、寝不足のようであるしな」

nameの首筋に鼻先を埋めるようにして、眠りの体勢になる長秀。心地良い腕の重みと体温を感じながら、nameもまた安心し切った表情を浮かべて目を閉じるのだった。

【恋とは君をおもうことだ】
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